第27回定期演奏会 「23歳のモーツァルトと19歳のシューベルト」 2013.11.29 ノバホール

【演奏者】
揮揮 鈴木優/ソプラノ 岩見真佐子/メッゾ・ソプラノ 米谷朋子/テノール 及川豊/バリトン 米谷毅彦/コンサート・ミストレス 神戸愉樹美/オーケストラ つくば古典音楽合奏団(第1ヴァイオリン 神戸愉樹美 夏目美絵 本多洋子 宮崎桃子; 第2ヴァイオリン 小林瑞葉 宮崎容子 影山優子 大久保幸子; チェロ 松岡陽平 夏秋裕一; コントラバス 諸岡典経; オーボエ 杉本明美 篠原由桂; ホルン 大貫ひろし 間宮淳; トランペット 中村孝志 中村肇; ティンパニ 鈴木力; オルガン 渡部聡)/合唱 つくば古典音楽合唱団


【プログラムと演奏録音】
Franz Schubert(1797-1828)/td> フランツ・シューベルト
Deutsche Messe, D872 ドイツ・ミサ曲(ドイツ語によるミサ曲)より
I. Zum Eingang  入祭唱として 27-01.mp3 (3.4MB)
II. Zum Gloria  グローリア(栄光の賛歌)として 27-02.mp3 (3.7MB)
Franz Schubert(1797-1828)/td> フランツ・シューベルト
Messe in C, D542 op.48 ミサ ハ長調(ミサ曲 第4番)
I. Kyrie  あわれみの賛歌(キリエ) 27-03.mp3 (5.2MB)
II. Gloria  栄光の賛歌(グローリア) 27-04.mp3 (6.6MB)
III. Credo  信仰宣言(クレド) 27-05.mp3 (9.0MB)
IV. Sanctus  感謝の賛歌(サンクトゥス) 27-06.mp3 (2.5MB)
V. Benedictus  感謝の賛歌(続き)(ベネディクトゥス) 27-07.mp3 (4.5MB)
VI. Agnus Dei  平和の賛歌(アニュス・デイ) 27-08.mp3 (5.9MB)
-休憩-

W. A. Mozart (1756-1791)/td> アマデウス・モーツァルト
Missa in C, Krönungsmesse, KV317 ミサ ハ長調 《戴冠式ミサ》
I. Kyrie  あわれみの賛歌(キリエ) 27-09.mp3 (4.5MB)
II. Gloria  栄光の賛歌(グローリア) 27-10.mp3 (6.3MB)
Kirchensonate Nr. 16 in C, KV329 (317a) 教会ソナタ16番 ハ長調27-11.mp3 (6.0MB)
III. Credo  信仰宣言(クレド) 27-12.mp3 (9.4MB)
IV. Sanctus  感謝の賛歌(サンクトゥス) 27-13.mp3 (2.9MB)
V. Benedictus  感謝の賛歌(続き)(ベネディクトゥス) 27-14.mp3 (4.5MB)
VI. Agnus Dei  平和の賛歌(アニュス・デイ) 27-15.mp3 (8.4MB)
ごあいさつ27-16.mp3 (4.1MB)
Encore: Franz Schubert(1797-1828), Messe in C, D452-op.48 Benedictus (Zweite Bearbeitung) 27-17.mp3 (8.7MB)


【プログラムノート】
鈴木 優

 本日はお忙しい中、つくば古典音楽合唱団創立25周年記念第27回定期演奏会にご来場いただき、ありがとうございます。当合唱団は1988年の創立以来、今年で四半世紀の歴史を刻むことができました。第1回演奏会でステージに立ったのは23名でした。その時には、ホワイエでの演奏会でした。その後、合唱団に参加して下さった方々の音楽に対しての熱意と愛情が礎となり、この25年間に私たちは大きな発展をすることができたと思います。そして、演奏会を聴きに来て下さる皆様にも感謝いたします。皆様が熱心に聴いて下さり、温かい拍手を送って下さることがなければ、当合唱団の活動がこれだけ続くことは難しかったと思います。毎回、多くの方がアンケートに感想を寄せて下さいます。その内容に私たちは叱咤激励されております。今回も忌憚のないご意見をいただければなによりです。それでは、しばしお寛ぎの時をお過ごし下さい。

本日の演奏会は「23歳のモーツァルトと19歳のシューベルト」と題しまして、アマデウス・モーツァルト(Mozart, Wolfgang Amadeus 1756‐1791)とフランツ・シューベルト(Schubert, Franz Peter 1797‐1828)の教会音楽をお聴きいただきます。

 音楽史的にモーツァルトはウィーン古典派の音楽家であり、シューベルトは古典派からロマン派への過渡期の音楽家です。モーツァルトは生涯の最後の10年間ウィーンを活動の拠点とし、シューベルトは生涯に渡ってウィーンで過ごしました。この2人の生年の差は41年ですから、モーツァルトがあと20年生きていたら、この2人は大音楽家と神童として出会っていたことでしょう。しかしモーツァルトが35歳で早逝したので、この2人が出会うことはありませんでした。そしてシューベルトの人生も、わずか31年でした。この2人の時代のウィーンにはさらに2人の大作曲家がおりました。ヨーゼフ・ハイドン(Haydn, Joseph 1732‐1809)とルートヴィッヒ・ヴァン・ベートヴェン(Beethoven, Ludwig van 1770‐1827)です。この4人の関係を要約すると、ハイドンとモーツァルトは友人同士でした。1790年12月にハイドンがロンドンへ行く時にモーツァルトはハイドンに「私は心配なのです、お父さん、最後の別れを述べているみたいで」と言いました。この言葉は思いがけずモーツァルト自身の死によって現実のものとなります。ベートーヴェンはモーツァルトに1784年のウィーン旅行の際に会っていただろうと推測されています。ベートーヴェンは1792年末から1794年1月までハイドンのレッスンを受けました。しかしハイドンのレッスンが情熱と誠意に欠けていると感じたベートーヴェンは他の先生にも師事するようになったので、この師弟関係は良好ではなかったのでしょう。ハイドンが亡くなった1809年にはシューベルトはまだ12歳で、寄宿制学校に合格したばかりですから接点はありませんでした。シューベルトはベートーヴェンに対して大きな尊敬の念を抱いており、友人に「ベートーヴェンの後でまだいったい誰に、何らかの人物になることができるだろう」と語りました。また、その控えめな性格からベートーヴェンに声をかけることができず、直接に会ったのは最後の年に病床を見舞った時だけでした。しかしベートーヴェンはシューベルトの才能を認めており、病床で「本当に、シューベルトには神の火花が宿っている」と語りました。

 シューベルトは1797年1月31日にウィーンの郊外ヒンメルプフォルトグルントに生まれました。父は教師であり、学校経営者でした。シューベルトの最初の音楽教育は父と兄によって行われましたが、すぐに手に負えなくなり教区オルガニストのホルツァー(Holzer, Michael 1772‐1826)にゆだねられました。ホルツァーは幼いシューベルトの才能に驚き「私が何か新しいことを教えようとすると、彼はもうそれを知っています」と語っています。シューベルトは1808年、11歳の年に宮廷礼拝堂聖歌隊のソプラノ歌手として「コンヴィクト」と呼ばれる寄宿制学校に入学します。ここでシューベルトはサリエリ(Salieri, Antonio 1750‐1825)による作曲のレッスンをはじめとして音楽の専門的な教育を受けます。そしてこの時代に多くの友人たちを得ました。変声期を迎えたシューベルトは1813年に寄宿制学校を退学し、父の学校を手伝いながら作曲をするという生活をします。その後の3年余りはシューベルトの創作の最初の頂点でした。1814年10月19日に作曲された《糸を紡ぐグレートヒェン》はそれまでのドイツ歌曲の概念を一変させました。シューベルトはこの3年間で歌曲だけで約300曲を作曲しました。これは生涯において作曲した歌曲の半分に当たります。本日演奏いたします《ミサ ハ長調》もこの時期の作品です。この時期にシューベルトの友人たちはシューベルトの歌曲の出版を画策し、後ろ盾となってもらうためにゲーテ(Goethe, Wolfgang von 1749‐1832)に楽譜を送りましたが、何のコメントもなくその楽譜は返送されました。シューベルトには音楽の世界につながる有力なコネクションがありませんでした。《魔王》がop.1として出版されたのは1821年でした。それも最初は自費出版でした。1822年12月にシューベルトは梅毒を発症します。当時は治療法もなく、重い病気でした。その中でもシューベルトは作曲を続けます。《美しき水車小屋の娘》は1823年の入院中の作品です。この頃からシューベルトの歌曲の出版点数は増え、演奏の機会も多くなります。しかし経済的には困窮し、宮廷や劇場に職を求めましたが、成果はありませんでした。健康状態は一進一退でしたが、創作力の衰えはありませんでした。後期の創作様式として無駄なものが削ぎ落とされ、内的な表現がますます深まっていく方向に音楽が向かい、その頂点が1827年の《冬の旅》です。1828年3月26日には生涯でただ1度の自作曲による演奏会を開き成功を収めます。しかし10月31日に体調を崩し11月14日には病床から離れられなくなります。医師は腸チフスの診断を下します。病床にあっても《冬の旅》の校正作業をしていましたが11月19日に最期の時を迎えました。《白鳥の歌》など多くの作品がシューベルトの死後に出版され、その名声が高まりました。

 《ドイツ・ミサ曲 D872》は《冬の旅》の年である1827年の作品です。自筆譜には《ミサの奉献聖祭用の歌、付録として主の祈り付き》と書かれています。この曲のドイツ語のテキストは工科大学物理学教授ヨハン・フィリップ・ノイマン(Neumann, Johann Philipp 1774‐1849)によって書かれました。ノイマンは教会音楽の平明化に努め、シューベルトはノイマンの依頼により作曲しました。全曲は8曲から成り、リート形式で作られています。本日は冒頭の2曲を演奏いたします。

《ミサ ハ長調 D452》は1816年6~7月に作曲されました。シューベルトはこのミサ曲を、最初に音楽教育を施してくれたホルツァーに献呈いたしました。このミサ曲はシューベルトの生前にもしばしば演奏されていたようで、1825年9月6日にはop.48として出版され、同月8日にはウィーンの聖ウルリィッヒ教会で演奏されたという記録も残っています。死の直前である1828年10月には〈ベネディクトゥス〉の第2稿も残しています。シューベルトのミサ曲には歌詞の省略という問題があります。とくに重要な問題はシューベルトが作曲した6曲のミサ曲のすべてに〈クレド〉中の「私は信じます、唯一の、聖なる、公同の、使徒継承の教会を」という1節が欠落していることです。シューベルトがカトリックやプロテスタントといった宗派の枠を超えた信仰を持っていたという意見もあります。また一方にシューベルトは啓蒙思想の時代を経た人としては一般的な信仰心を持ち合わせていたが、教会の制度的な部分には批判的であったとする意見もあり、シューベルトの信仰のあり方は、今後とも議論される問題です。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは1756年1月27日にザルツブルクに生まれました。アマデウスは5歳の時にすでにピアノの小品を作曲し、1762年から1772年にかけてはヨーロッパ中の宮廷で神童としてもてはやされました。この時期に各地で当時の最高の音楽を体験できたことは、後の創作のための貴重な財産となりました。当時のザルツブルクは、カトリック教会の大司教が領主として統治する、大司教領でした。アマデウスは当時の大司教コロレド(Colloredo, Hieronymus Joseph Franz de Paula 1732‐1812)から1772年にコンツェルトマイスター、そして1779年には宮廷オルガニストに任命されます。アマデウスは外国での仕事を望んでいましたが、コロレドは長期の休暇を与えることを渋ったので、この2人の間には対立が生じました。1773年からアマデウスは職を求めて再び旅行をしますが、ことごとく求職活動に失敗し失意のうちにザルツブルクに帰りました。コロレドとの対立は深刻なものとなり、1781年6月8日にはウィーンにおいてコロレド側近のアルコ伯爵がアマデウスの背中を蹴りつけて、館の外に追い出すという決定的な事態になってしまいました。アマデウスは活動の場をウィーンに移し1782年7 月には《後宮よりの逃走》が大好評を博し、大人気の音楽家となります。その人気は1787年のプラハでの《ドン・ジョヴァンニ》の初演でピークを迎えますが、その後その人気は下降線をたどり、残りの4年間は常に借金をし続ける必要に迫られました。経済的困窮の中アマデウスは1791年12月5日に35歳で亡くなります。葬儀は最低の等級で行われ、埋葬された墓地の正確な場所はわからなくなってしまいました。

 《戴冠式ミサ KV317》の自筆譜には1779年3月23日の日付があります。職を得ることもできず、旅先で母が亡くなるという不幸が重なったパリ・マンハイム旅行(1777年9月23日~1779年1月15日)の直後の作品です。《戴冠式ミサ》という名前から、このミサ曲がザルツブルク郊外のマリア・ブライン巡礼教会のマリア像の戴冠式を祝うためのミサ曲と考えられていましたが、実際には1791年にプラハで行われたレオポルトⅡ世の戴冠式でサリエリがこのミサ曲を指揮したことが《戴冠式ミサ》と呼ばれる由来です。大司教コロレドがミサの音楽に時間制限を設けたため、ザルツブルク時代の他のミサと同様、この曲も簡潔なミサ・ブレヴィスの形式を取っています。実用上の要請から対位法的な部分は制限されていますが、和声の力による劇的な表現や美しい旋律によって、このミサ曲は知名度の高い曲となりました。〈アニュス・デイ〉の旋律が後に《フィガロの結婚》の伯爵夫人のアリア〈美しき日はいずこ〉に転用されています。本日は〈グローリア〉と〈クレド〉の間に、《戴冠式ミサ》のために作曲された教会ソナタKV329(317a)を演奏いたします。教会ソナタは、当時のミサに於いて使徒書簡朗読と福音書朗読の間で演奏された器楽曲です。

 本日は古楽器によるオーケストラと共にA=430Hzのピッチで演奏いたします。これは古典派の時代にウィーンで一般的に使われたピッチであり、現代の古楽器による古典派作品の演奏における標準のピッチです。ちなみに現代の標準ピッチA=440Hzは1939年にロンドンでの国際会議で決められたものです。