第28回定期演奏会 「ハイドン、円熟期の傑作《テレジア・ミサ》」 2014.11.29 ノバホール

【演奏者】
揮揮 鈴木優/ソプラノ 岩見真佐子/メッゾ・ソプラノ 米谷朋子/テノール 谷川佳幸/バリトン 米谷毅彦/コンサート・ミストレス 神戸愉樹美/オーケストラ つくば古典音楽合奏団(第1ヴァイオリン 神戸愉樹美、夏目美絵、丹沢弘樹、本多洋子;第2ヴァイオリン 天野寿彦、宮崎蓉子、廣海史帆、影山優子;ヴィオラ 諸岡涼子、小林瑞葉;チェロ 高群輝夫、小林奈那子;コントラバス 高橋直人;クラリネット 坂本徹、李胎蓮;ファゴット 安本久男;トランペット 中村孝志、中村肇;ティンパニ 鈴木力、オルガン 渡部聡)/合唱 つくば古典音楽合唱団


【プログラムと演奏録音】
Franz Schubert(1797-1828)/td> フランツ・シューベルト
Messe in G D167 ミサ ト長調 D167
I. Kyrie  あわれみの賛歌(キリエ) 28-01.mp3 :3.2MB
II. Gloria  栄光の賛歌(グローリア) 28-02.mp3 :2.8MB
III. Credo  信仰宣言(クレド) 28-03.mp3 :4.1MB
IV. Sanctus  感謝の賛歌(サンクトゥス) 28-04.mp3 :1.3MB
V. Benedictus  感謝の賛歌(続き)(ベネディクトゥス) 28-05.mp3 :4.0MB
VI. Agnus Dei  平和の賛歌(アニュス・デイ) 28-06.mp3 :4.4MB

-休憩-

Joseph Haydn (1732-1809)/td> ヨーゼフ・ハイドン
Missa in B "Theresienmesse" Hob. XXII:12 ミサ 変ロ長調 《テレジア・ミサ》 Hob. XXII:12
I. Kyrie  あわれみの賛歌(キリエ) 28-07.mp3 :4.8MB
II. Gloria  栄光の賛歌(グローリア) 28-08.mp3 :12.1MB
III. Credo  信仰宣言(クレド) 28-09.mp3 :9.7MB
IV. Sanctus  感謝の賛歌(サンクトゥス) 28-10.mp3 :2.0MB
V. Benedictus  感謝の賛歌(続き)(ベネディクトゥス) 28-11.mp3 :6.6MB
VI. Agnus Dei  平和の賛歌(アニュス・デイ) 28-12.mp3 :6.1MB


【プログラムノート】
鈴木 優

本日は、つくば古典音楽合唱団第28回定期演奏会にご来場いただき、ありがとうございます。しばしの間、合唱と管弦楽そして声楽ソリストによる楽興の時をお楽しみいただければ幸いです。

本日の演奏会では前半にウィーン古典派からロマン派への橋渡しをしたフランツ・シューベルト(Schubert, Franz Peter 1797‐1828)が18歳の年(1815年)に作曲したミサ曲を、そして後半ではウィーン古典派の中心的存在であるヨーゼフ・ハイドン(Haydn, Joseph 1732‐1809)が67歳の年(1799年)に作曲したミサ曲をお聴きいただきます。

シューベルトは1797年1月31日にウィーンの郊外ヒンメルプフォルトグルントに生まれました。父は教師であり、学校経営者でした。シューベルトの最初の音楽教育は父と兄によって行われましたが、すぐに手に負えなくなり教区オルガニストのホルツァー(Holzer, Michael 1772‐1826)にゆだねられました。ホルツァーは幼いシューベルトの才能に驚き「私が何か新しいことを教えようとすると、彼はもうそれを知っています」と語っています。シューベルトは1808年、11歳の年に宮廷礼拝堂聖歌隊のソプラノ歌手として「コンヴィクト」と呼ばれる寄宿制学校に入学します。ここでシューベルトはサリエリ(Salieri, Antonio 1750‐1825)による作曲のレッスンをはじめとして音楽の専門的な教育を受けます。そしてこの時代に多くの友人たちを得ました。変声期を迎えたシューベルトは1813年に寄宿制学校を退学し、父の学校を手伝いながら作曲をするという生活をします。その後の3年余りはシューベルトの創作の最初の頂点でした。1814年10月19日に作曲された《糸を紡ぐグレートヒェン》はそれまでのドイツ歌曲の概念を一変させました。シューベルトはこの3年間で歌曲だけで約300曲を作曲しました。これは生涯において作曲した歌曲の半分に当たります。この時期にシューベルトの友人たちはシューベルトの歌曲の出版を画策し、後ろ盾となってもらうためにゲーテ(Goethe, Wolfgang von 1749‐1832)に楽譜を送りましたが、何のコメントもなくその楽譜は返送されました。シューベルトには音楽の世界につながる有力なコネクションがありませんでした。《魔王》がop.1として出版されたのは1821年でした。それも最初は自費出版でした。1822年12月にシューベルトは梅毒を発症します。当時は治療法もなく、重い病気でした。その中でもシューベルトは作曲を続けます。《美しき水車小屋の娘》は1823年の入院中の作品です。この頃からシューベルトの歌曲の出版点数は増え、演奏の機会も多くなります。しかし経済的には困窮し、宮廷や劇場に職を求めましたが、成果はありませんでした。健康状態は一進一退でしたが、創作力の衰えはありませんでした。後期の創作様式として無駄なものが削ぎ落とされ、内的な表現がますます深まっていく方向に音楽が向かい、その頂点が1827年の《冬の旅》です。1828年3月26日には生涯でただ1度の自作曲による演奏会を開き成功を収めます。しかし10月31日に体調を崩し11月14日には病床から離れられなくなります。医師は腸チフスの診断を下します。病床にあっても《冬の旅》の校正作業をしていましたが11月19日に最期の時を迎えました。《白鳥の歌》など多くの作品がシューベルトの死後に出版され、その名声が高まりました。

シューベルトのミサ曲には、本来は許されない歌詞の省略という問題があります。とくに重要なのはシューベルトの6曲のミサ曲のすべてに〈クレド〉中の「私は信じます、唯一の、聖なる、公同の、使徒継承の教会を」という1節が欠落していることです。シューベルトがカトリックやプロテスタントといった宗派の枠を超えた信仰を持っていたという意見もあります。また一方にシューベルトは啓蒙思想の時代を経た人としては一般的な信仰心を持ち合わせていたが、教会の制度的な部分には批判的であったとする意見もあり、シューベルトの信仰のあり方は今後も議論が続く問題です。

音楽史において、ハイドン、モーツァルト(Mozart, Wolfgang Amadeus 1756‐1791)、ベートーヴェン(Beethoven, Ludwig van 1770‐1827)が活躍した「ウィーン古典派」の時代は空前の黄金時代であったといえるでしょう。ハイドンはこの3人の中で、最も早く生まれています。今日「交響楽の父」あるいは「弦楽四重奏の父」と呼ばれるように、ソナタ形式を中心としたこの時代の音楽の様式の基礎を築きました。

ハイドンは1732年3月31日、オーストリアとハンガリーとの国境近くのローラウという村に生まれました。父マティアス(Haydn, Mathias 1699‐1763)は車大工でしたが、後に市場裁判官を務めました。美しい声を持っていたハイドンの音楽的才能に気付いた父の義弟フランク(Frank, Johann Mathias 1708‐1783)が5歳のハイドンを引き取り教育を与えました。フランクはハインブルクで学校の校長であり教会音楽家でした。1739年にハインブルクを訪れたウィーン聖シュテファン教会楽長のロイター(Reutter, Karl Georg 1708‐1772)に見いだされ、ハイドンは1740年より聖シュテファン教会の少年聖歌隊員になります。しかし変声期をむかえた17歳の年、1749年には聖歌隊を去らなければなりませんでした。その後の10年間は不安定な生活の中で、作曲や演奏の修行をしました。そして1759年にパトロンの推挙によって、ハイドンはボヘミアのルカヴィーツェに領地のあるモルツィン伯爵(Graf von Morzin 1693‐1763)の宮廷に、楽長兼作曲家の職を得ることができました。ハイドンの初期の交響曲は、この時期に作曲されています。ところが財政上の問題から、宮廷楽団はその年のうちに解散を余儀なくされます。ハイドンは、モルツィン伯の推薦によって1761年にアイゼンシュタットのエステルハージ家の副楽長となりました。1766年には楽長に昇進し、君主ニコラウス一世(Fürst Nikolaus Joseph Esterhazy 1714‐1790)が亡くなる1790年まで、30年間にわたってこの宮廷に勤めました。その後ハイドンは、1791年~92年、1794~95年と2回に渡ってロンドンを訪れます。これはヴァイオリン奏者兼興行師ザロモン(Salomon, Johann Peter 1745‐1815)の招きによるものです。ハイドンはロンドンで歓待をもって迎えられ大人気を博し、多大な収入を得ました。この機会に、有名な《軍隊》や《時計》などを含む12曲の《ロンドン交響曲》が作曲されました。ロンドンからの帰国後はエステルハージ家の新しい君主ニコラウス二世(Fürst Nikolaus Esterhazy 1765‐1833)の要請により1795年より再びエステルハージ家の楽長となります。その後もハイドンの創作意欲は衰えず1803年まで作曲を続けました。1803年の引退後も自分の作品の補筆やイギリスの出版社のための民謡の編曲などを1806年まで続けました。そして、1809年5月31日にナポレオン占領下のウィーンで、77歳の人生を閉じました。6月15日にショッテン教会で追悼式が行われ多くの参会者が教会堂を埋めつくし、モーツァルトのレクイエムが演奏されたのでした。

ハイドンは、器楽曲の作曲家としてのイメージが強いのですが、オペラやオラトリオ、教会音楽などの声楽曲も数多く作曲しており、カトリックのミサ曲も14曲残しています。ハイドンはロンドンから帰った後、1796年~1802年にかけて6曲のミサ曲をエステルハージ家のために作曲しました。これらのミサ曲はマリア・ヨゼファ・ヘルメネギルト・エステルハージ侯爵夫人(Esterhazy, Maria Josepha Hermenegild 1768‐1845)の命名祝日にアイゼンシュタットのベルク教会で初演されました。本日演奏いたします《テレジア・ミサ》は1799年に作曲され、その年の9月8日に侯爵夫人の命名祝日のミサで初演されたと推定されます。ハイドンは1798年に《天地創造》、そして1801年に《四季》を作曲しておりますので、《テレジア・ミサ》はこの二大オラトリオの成立の間に作曲されたことになります。オーストリア国立図書館所蔵の自筆譜によると曲名に特別な表題はなく、ただ《ミサ曲》とのみ書かれています。《テレジア・ミサ》の通称は、現在では否定されていますがこの曲が最後の神聖ローマ皇帝、フランツII世(Franz II 1768‐1835)の二番目の妃マリア・テレジア(Maria Therese von Neapel 1772‐1807)のために書かれたと考えられたことに因っています。マリア・テレジア(オーストリアの女帝とは別人)は献呈を受けたのではなく、ハイドンの作品を愛好し、ハイドンのミサ曲の楽譜を自ら収集していました。

この曲も〈キリエ〉〈グロリア〉〈クレド〉〈サンクトゥス〉〈ベネディクトゥス〉〈アニュス・デイ〉の6楽章から成っていますが、〈グロリア〉〈クレド〉の2楽章は歌詞の構成に応じて細分されています。編成は四声部の合唱、4人のソリスト、オーケストラは弦楽合奏とオルガンに2本のクラリネット、ファゴット、2本のトランペット、ティンパニが加わります。

本日は古楽器によるオーケストラと共にA=430Hzのピッチで演奏いたします。これは古典派の時代にウィーンで一般的に使われたピッチであり、現代の古楽器による古典派作品の演奏における標準のピッチです。ちなみに現代の標準ピッチA=440Hzは1939年にロンドンでの国際会議で決められたものです。