第12回定期演奏会《モーツァルト レクイエム》1998.11.21

<演奏者>
指揮 鈴木優 / ソプラノ 山内房子 / アルト 阪口直子 / テノール 大島博 / バス 山崎岩男 /オルガン 渡部聡 / コンサート・ミストレス 神戸愉樹美 / オーケストラ つくば古典音楽合奏団 (第1ヴァイオリン 神戸愉樹美,大西律子,高橋真二 ; 第2ヴァイオリン 小池吾郎,山内久美子,矢島栄子 ; ヴィオラ 諸岡涼子,上田美佐子 ; チェロ 高橋弘治 ; コントラバス 諸岡典経 ; バセットホルン 重松希巳江,中村克巳 ; ファゴット 坂田在世,高林美樹 ; トランペット 長田吉充,大矢智子 ; トロンボーン 松永憲二,櫻井広介,貝森康夫 ; ティンパニー 福島優美) / 合唱 つくば古典音楽合唱団


<プログラムと演奏録音>

G. F. Frescobaldi (1583-1643) フレスコバルディ
TOCCATA TERZA (libro primo 1615) トッカータ第3番(第1巻) 12-01.mp3 4:56
G. P. da Palestrina (1525-1594) パレストリーナ
O Beata Trinitas おお至福なる三位一体 12-02.mp3 3:25
Cristobal Morales (ca1500-1553) モラレス
Manus Tuae Domine あなたの御手は、主よ 12-03.mp3 4:00
G. F. Frescobaldi (1583-1643) フレスコバルディ
TOCCATA TERZA (libro secondo 1627) トッカータ第3番(第2巻) 12-04.mp3 7:50
Arvo Paert (1935- ) ペルト
Magnificat 私の魂は主をあがめ
-休憩-
W. A. Mozart (1756-1791) モーツァルト
Requiem K626 レクイエム
  I. Introitus  入祭文
   Requiem     12-06.mp3 5:10
  II. Kyrie  キリエ 12-07.mp3 2:50
  III. Sequenz  続誦
   1. Dies irae     12-08.mp3 2:10
   2. Tuba mirum     12-09.mp3 3:48
   3. Rex tremendae     12-10.mp3 2:28
   4. Recordare     12-11.mp3 5:46
   5. Confutatis     12-12.mp3 2:37
   6. Lacrimosa     12-13.mp3 3:14
  IV. Offertorium  奉献誦
   1. Domine Jesu     12-14.mp3 4:15
   2. Hostias     12-15.mp3 4:25
  V. Sanctus  サンクトゥス 12-16.mp3 1:50
  VI. Benedictus  ベネディクトゥス 12-17.mp3 5:12
  VII. Agnus Dei  アニュス・デイ 12-18.mp3 3:25
  VIII. Communio  聖体拝領誦
   Lux aeterna 12-19.mp3 6:10
Encore: Mozart, Ave verum corpus K.618 12-20.mp3 3:00

<プログラムノート> 鈴木優

本日の演奏会では、前半に16世紀ルネサンス期の音楽家パレストリーナと モラレスのモテット、そして現代を代表する作曲家、アルヴォ・ペルトの合唱曲をお聴きいただきます。そして、休憩後の後半にはモーツアルトの最後の作品”レクィエム” を管弦楽、4人の独唱者と共に演奏いたします。

*  *  *

16世紀の代表的作曲家パレストリーナは、1525年ローマの近郊のパレストリーナという町に生まれました。正式な名前はジョヴアンニ・ピエールルイージ・ダ・パレストリーナですが、出身地の名前が本人の通称となっています。1544年に故郷でオルガニストとなり、その後は1551年に教皇庁内聖歌隊カペルラ・ジュリア楽長、1555年システィナ礼拝堂聖歌隊歌手、1555-60年ラティーノ教会楽長、1567年エステ枢機卿楽長、1571年には再びカペルラ・ジュリアの楽長の地位を得ました。

その生涯の殆どをローマで過ごし、90以上のミサ曲、500曲以上のモテット、約100曲のマドリガルなどの作品を残しました。1594年に没したパレストリーナの葬儀はサン・ピエトロ大聖堂で行われ、ローマの重要な音楽家たちが皆参列しました。

パレストリーナの音楽の特徴は、その先達であるフランドル出身の音楽家たちが極めた声楽ポリフォニーの技法と、イタリア的な旋律や豊かな和声を統合したものであると言えるでしょう。順次進行の多い柔らかな旋律線、バスの声部がポリフォニーの一声部を担いながら、同時に殆どの箇所で和声の根音となっていること、注意深く控えめに用いられた不協和音、といったことがパレストリーナ独特の広い空間にふさわしい調和のとれた世界を形成しています。

“O beata Trinitas “は1569年に出版された”モテトゥス集第1巻”に収録された、聖三位を讃える5声部のモテットです。ポリフォニーが優位を占める部分、”父と子と聖霊”と歌うホモフォニーの部分、そして喜びの声である “アレルヤ”の部分が見事なバランスで構成されています。

*  *  *

クリストバル・デ・モラレスは1500年頃セビーリャに生まれ、イベリア半島出身で最初の大作曲家として知られるようになります。モラレスは自分の出身地に対して、大きな誇りを抱き続けました。セビーリャには豊かな音楽的伝統があり、大聖堂では水準の高い音楽家が公職に就いていたため、モラレスは故郷を離れて音楽教育を受ける必要はありませんでした。

1526年にスペイン最古の大聖堂であるアビラ大聖堂、1528年にプラセンシア大聖堂の楽長を歴任した後、1535年にはローマ教皇庁聖歌隊歌手となります。10年間のローマでの職務のうち後半の5年間に多くの作品が発表されましたが、健康を害したために多くの病欠日数の記録が残っています。

1545年にはローマを去りスペインに戻り、大司教座のあるトレド大聖堂の楽長になります。しかしそこでは自分の給料によって少年聖歌隊員を寄宿させ養う義務があったため、借金を作ってしまいます。また重病にもかかり、さらには音楽様式の違いなどの問題もあり、2年で辞任します。

1551年にはマラガ大聖堂の楽長となりますが、歌手たちが従わない、少年聖歌隊の規則の問題などで罰金を科せられるなど、不幸な晩年のうち1553年に亡くなりました。

モラレスの評価は没後30年間、非常に高いものとなり、ヨーロッパ各地からメキシコにまで、その音楽は知られるようになりました。モラレスの音楽は殆どが典礼用であり、23のミサ曲、マニフィカト16曲、モテット約90曲が残されています。

“Manus tuae Domine”はヨブ記10章8~12節をテキストとする、死者のための聖務日課のための5声部のモテットです。2つのソプラノ(カントゥス)声部は厳格なカノンを歌い、全体は教会旋法のフリギア調で作曲されています。パレストリーナに比べると古風な響きですが、自然とにじみ出るテキストの内容の音化には、すばらしいものがあります。

*  *  *

現代音楽に関心のある方ならアルヴォ・ペルトの名前はよくご存じでしょう。古典音楽合唱団に於いて、現存する作曲家の作品を演奏するのは初めてのことです。

ペルトは、1935年エストニアのパイデという小さな町に生まれます。子供の頃自分の家にラジオがなかったので、通りの備え付けスピーカーから聞こえてくるラジオの音楽を何時間でも聴いていたそうです。放送局の音響ディレクターをしながら、タリン音楽院の作曲家のクラスを1963年に卒業します。1962年には子供のためのカンタータ”僕たちの庭”とオラトリオ”世界の足取り”で全ソ連青年作曲家コンクール第1位となっています。

60年代には12音技法を用いた前衛的な作曲を行っていました。当時ソ連ではこの技法は禁止されていて、当局から非難を受けるようになります。そして60年代のおわりに偶然中世の音楽を耳にしたことをきっかけに、作風を大転換していくことになります。

ペルトは「音楽が複雑であればあるほど、力があると信じていたが、事実は逆だった」と語っています。1968年から5年間作曲活動を中止し、中世、ルネサンス音楽の研究に没頭します。ごくわずかな音だけで、どのようにしたら音楽が作られるかを古い音楽の中に探りました。そして1976年以降に、今日私たちが知る新しいペルトの音楽が生まれたのです。

新しい音楽は何の先入観もなく聴いて、それぞれが自分の感性で、その価値を判断するべきでしょう。わたしがはじめてペルトを聴いたとき(それはヨハネ受難曲のLPレコードでした)思ったのは、「これはいったい、いつの時代の音楽なのだろうか」ということです。この思いは今ではますます強くなってきています。新しい響きでありながら、遠い昔に、あるいは自分が生まれる前に、あるいは人間の存在以前の時間から、時空を越えて、現在生きている私たちに届いてくる音のように思われます。そしてその静かな世界は自然と聴くものを瞑想に誘います。

1980年にオーストリアへ亡命し、まもなくベルリンに移ったペルトは、その頃からキリスト教の典礼文に作曲する宗教曲を発表しています。”Magnificat”は1989年にベルリンの市と、大聖堂の合唱団に献呈されています。テキストはルカによる福音書第1章46~55節の聖母マリアの賛歌によっています。

*  *  *

ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルトは1756年1月27日ザルツブルクに生まれます。当時のザルツブルクはローマ教皇領であり、教皇から任命された大司教が治める町でした。そこには当然大いなるカトリック教会音楽の伝統がありました。当地でのモーツアルトの仕事は、宮廷や貴族のための音楽と並んで教会音楽の作曲と演奏が重要なものでした。最初のミサ曲K139(47a)はヴィーンの孤児院教会の献堂式のためのものでしたが、モーツアルト12歳の1768年に作られています。

映画の「アマデウス」を見ていただくと良くわかりますが、モーツアルトは仕事上の待遇面での不満などから、大司教とは不仲となり、1781年にはザルツブルクでの仕事を解任され、以降死ぬまでの10年間をヴィーンで過ごすことになります。この当時の音楽家は、宮廷あるいは教会に仕える、いわば宮仕えが普通でした。その中にあってモーツアルトは、作曲の注文を受ける、ピアノのレッスンをする、演奏活動を行うといった仕事をフリーランスとしていたわけです。これは当時としては非常に画期的な人生の選択でした。しかしモーツアルトほどの才能があっても、またこの時代にこのような生き方は難しく、晩年には経済的に 行き詰まり、数多くの借金を依頼する手紙を書くことになりました。ちなみにヴィーン時代の作品は、オペラ「後宮よりの誘拐」K.384以降のものです。

ヴィーン時代にモーツアルトが作曲した教会音楽は、わずかに3曲だけです。結婚後、ザルツブルクでの奉納ミサのために作曲した1783年の”ハ短調ミサ”K.427、1791年6月バーデンの合唱指揮者アントン・シュトルのために作曲された “Ave verum corpus”K.618、そしてモーツアルトの最後の作品となる、”レクィエム”K.626です。

19世紀には、そのロマン主義的な気分から過去の音楽家を神格化したり、悲劇の人物と見なしたりするような伝統が多く生まれました。レクィエムの成立にも、様々な伝説が伝えられました。「1791年晩春にモーツアルトは、名前も告げない灰色の服を着た男からレクィエムの作曲を依頼され、前金として謝礼の半額を受け取った。」という話が伝えられています。

そして19世紀の半ばには突然、イタリア語で書かれたオペラの台本作者ダ・ポンテ宛の手紙が現れました。内容を要約すると「私の頭は混乱しています。あの見知らぬ男の姿が目の前から追い払えません。私には最後の時が鳴っているように思えます。…これは私の葬送の歌です。未完成のまま残しておくわけにはいきません。」というようなレクィエム作曲中の心情が語られています。なかなか感動的な手紙なのですが、今では偽作であるとされています。

また依頼主は誰かということですが、ヴィーン南方のシュトゥパッハ城主フランツ・フォン・ヴァルゼック伯爵であると判明しています。伯爵は2月に亡くなった夫人ののために作曲を依頼しました。また伯爵は著名な作曲家に依頼した曲を自分で写譜し、自分の楽団員に演奏させ、その作曲者を当てさせるという趣味を持っていたと伝えられます。匿名での依頼には、こういった事情も関与していたかも知れません。しかし現在では、伯爵がモーツアルトにレクィエムを依頼するという、公証人の立ち会いのもとに作成された契約書も発見されています。

レクィエムの作曲半ばの12月5日に、モーツアルトは病死します。未亡人となったコンスタンツェは契約を守り、残りの謝礼を受け取るためには、この未完のレクィエムを完成させる必要がありました。コンスタンツェは、まずモーツアルトも高く評価していたヨーゼフ・アイブラーに依頼しますが、何曲かのオーケストレーションを試みた後、スコアをコンスタンツェに返します。コンスタンツェは更に何人かに打診した後、弟子であるジェスマイヤーに依頼し、本日演奏いたします形に完成という運びとなります。

ジェスマイヤーはモーツアルトの死の直前に、レクィエムを完成させるための指示を受けていたと言われていまいましたが、それなら、何故モーツアルトの死後、一番に依頼を受けなかったのかという疑問が残ります。

今回演奏に用いますジェスマイヤー版の、モーツアルト直筆の部分とジェスマイヤーによる補筆は以下のようになります。

Introitus、Kyrie
モーツアルトにより完成
Dies irae、Tuba mirum、Rex tremendae、Recordare、Confutatis
声楽パートと管弦楽バス声部はモーツアルトにより完成、また管弦楽の重要な音型は書き残されている。オーケストレーションのかなりの部分はジェスマイヤーによる補筆。
Lacrymosa
管弦楽の前奏2小節と声楽パート8小節までがモーツアルトにより残されている、ここが絶筆の箇所です。9小節以降はすべてジェスマイヤーによる補筆。
Domine Jesu、Hostias
Dies iraeとほぼ同じ状況
Sanctus、Benedictus、Agnus Dei
全面的にジェスマイヤーによる創作
Lux aeterna、Cum sanctis
Introitus、Kyrieの音楽を歌詞を付け替えて使用

今日ではジェスマイヤーの補筆に対しての批判から、主にオーケストレーションをし直した楽譜も使われています。しかし当合唱団の最初のレクィエムのアプローチとしては、モーツアルトの生前の弟子であり、死後数ヶ月で完成したジェスマイヤー版を経験したいと思います。
最近の音楽学の進歩はロマンチックな伝承をはぎ取って、事実を明るみに出していきます。しかしモーツアルトのレクィエムのような偉大な音楽の価値はそのような事によって何ら影響を受けるものではない事を確信いたします。


<オルガン曲> 渡部聡

ジロラモ・フレスコバルディ(1583-1643)は、イタリア初期バロックの作曲家のなかも、後生への影響という点でとりわけ重要な人物です。1608年、25歳の若さでローマのサンピエトロ大聖堂のオルガニストとなったフレスコバルディは、当時から鍵盤楽器の輝かしい大家としての名声を博し、スター的な存在でした。彼のもとにはヨーロッパ各地から優秀な弟子が集まり、その直接、間接の影響は18世紀半ばに至るまで顕著に見られます。

多くの鍵盤楽器の中でも特にトッカータは、それまでのアルカイックなスタイルから、よりダイナミックで叙情性に富み、柔軟性を持った形式へと発展させられ、バロック期を通じて鍵盤楽器の代表的な形式となりました。

本日演奏する2曲のうち、第1巻のトッカータ第3番はフレスコバルディの典型的な書法によって書かれており、走句を多用した幻想的で即興的な部分と、対位法的で厳格な部分とが交代します。第2巻のトッカータ第3番は、「聖体奉挙のための」と記され、カトリックの典礼の中でも特に神秘的な部分で奏される目的をもった曲です。

本日使用のオルガンは草苅徹夫氏製作(1993年)の3列(8′ 4′ 2’)のポジティフです 。


【歌詞対訳】

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