第15回定期演奏会《ドイツバロックとウィーン古典派の教会音楽》2001.11.23

<演奏者>
指揮 鈴木優 / ソプラノ 大河原美紀子 / オルガン 渡部聡 / コンサート・ミストレス 神戸愉樹美 / オーケストラ つくば古典音楽合奏団 (第1ヴァイオリン 神戸愉樹美,大西律子,小池吾郎 ; 第2ヴァイオリン 宮崎容子,山本伸子,高橋真二 ; ヴィオラ 高橋真二 ; チェロ 藤本英雄 ; コントラバス 田中洪至 ; オルガン 渡部聡) / 合唱 つくば古典音楽合唱団


<プログラムと演奏録音>

Johann Pachelbel (1653-1706) パッヘルベル
Ricercare c-moll リチェルカーレ ハ短調 15-1-01.mp3 7:02
Heinrich Schütz (1585-1672) シュッツ
Selig sind die Toten, SWV391 主の中で逝く死者は幸いである 15-1-02.mp3 3:30
Girolamo Frescobaldi (1583-1643) フレスコバルディ
Ancidetemi pur d’Archadelt passaggiato アルカデルトのマドリガーレによるパッサジャート 15-1-03.mp3 6:41
Johann Sebastian Bach (1685-1750) バッハ
Komm, Jesu, komm, BWV229 来てください、イエスよ、来てください 15-1-04.mp3 8:13
Girolamo Frescobaldi (1583-1643) フレスコバルディ
Toccata nona (libro secondo 1627) トッカータ第9番 (第2巻より) 15-1-05.mp3 6:09
Johann Sebastian Bach (1685-1750) バッハ
Lobet den Herrn, alle Heiden, BWV230 主を讃美せよ、すべての異邦人よ 15-1-06.mp3 6:33
-休憩-
Joseph Haydn (1732-1809) ハイドン
Missa brevis Sti Joannis de Deo, Hob.XXII:7
(Kleine Orgelmesse)
聖ヨハネ・デ・デオのミサ・ブレヴィス
(小オルガンミサ)
  Kyrie   キリエ 15-2-01.mp3 2:17
  Gloria   グロリア 15-2-02.mp3 1:10
  Credo   クレド 15-2-03.mp3 3:16
  Sanctus   サンクトゥス 15-2-04.mp3 1:14
  Benedictus   ベネディクトゥス 15-2-05.mp3 6:10
  Agnus Dei   アニュス・デイ 15-2-06.mp3 3:04
Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791) モーツァルト
Te Deum, K141/66b テ・デウム 15-2-07.mp3 8:00
Misericordias Domini, K222 主のあわれみを 15-2-08.mp3 7:08
Sancta Maria, mater Dei, K273 聖なるマリア、神の御母 15-2-09.mp3 4:57
Ave verum corpus, K618 アヴェ・ヴェルム・コルプス 15-2-10.mp3 3:22
Encore: Bach, Jesus bleibet meine Freude, BWV147-10 15-2-11.mp3 3:25
Encore: Haydn, Agnus Dei aus Kleine Orgelmesse 15-2-12.mp3 2:54

<プログラムノート> 鈴木優

本日のつくば古典音楽合唱団第15回定期演奏会のプログラムは、前半にドイツ・バロック音楽の二人の巨匠、シュッツとJ.S.バッハのモテット、そして同時代のオルガン独奏曲をお聴きいただきます。後半はウィーン古典派のシンボルであるハイドンとモーツァルトの作品を、弦楽合奏・オルガンと共に演奏いたします。

当合唱団では、これらの作曲家の様々な作品をこれまでも繰り返し演奏してきました。このようなヨーロッパ文明の粋といえる優れた作品は、私達の毎週の練習において、多くの克服しなければならない課題を提示してきます。しかし練習がすすみ、霧がはれてくるように音楽の形が見通せるようになってきますと、言葉では言い表せないような音楽をする喜び、あるいは音楽と共に自分が在ることの喜びを感じさせてくれるのです。私たちの演奏会も今回で15回目を数えることができましたが、これら数多くの美しい音楽に導かれ、鍛えられ、育てられてきたように思います。

本日ご来場下さいました皆様に、私達の演奏を通じて、これらの音楽の美しさや徳性を、少しでも提示することができたらと願う次第です。

*  *  *

「主の中で逝く死者は幸いである」の作曲者ハインリッヒ・シュッツは、バッハが生まれるちょうど100年前、1585年10月14日にライプツィヒの南方40kmにあるケストリッツという村に生まれました。モーリッツ辺境伯に見出され、1598年にカッセルの宮廷礼拝堂歌手となり、1609年にはサン・マルコ大聖堂のジョヴァンニ・ガブリエリに師事するために、ヴェネツィアへ留学します。帰国後、1613年にカッセルで宮廷オルガニストを務めた後、1617年にドレスデンの宮廷楽長となり、以後1672年11月6日に亡くなるまで、この地で生涯を送りました。

本日演奏いたしますモテットは、1648年にドレスデンで出版されライプツィヒの市参事会に献呈された「宗教合唱曲集(Geistliche Chormusik)」に収録されています。この曲集には29曲のモテットが収められていますが、その対位法書法やドイツ語の朗唱法のすばらしさ、そして極めて深い精神性を感じさせることなど、水準の高い作品ぞろいのシュッツの音楽の中でも、最高の傑作が集められた曲集であると思います。

「主の中で逝く死者は幸いである」は六声部の合唱のために書かれ、テキストはヨハネの黙示録第14章第13節からとられています。死者への慰めを語るこのテキストは後にブラームスのドイツ・レクイエムの終章でも歌われることになります。

*  *  *

ヨハン・セバスティアン・バッハは、1685年3月21日にアイゼナッハで音楽家の家に生まれます。 18歳の年、1703年にアルンシュタット、1707年にはミュールハウゼンのオルガニストとなります。この間1705年10月より16週間にわたり、北ドイツのリューベックに滞在し、ブクステフーデのオルガン演奏や、「夕べの音楽」と呼ばれた教会音楽会を聴きました。その後1708~17年はワイマールの宮廷オルガニストを務めます。この時代にも、多くの魅力的なカンタータを作曲しています。続いて1717~23年は、ライプツィヒ北西50kmにある城下町ケーテンの宮廷楽長となります。ケーテンの領主レオポルト公は音楽を好み、バッハも幸福な日々を送ったといわれています。この時期には「ブランデンブルク協奏曲」を始めとし、多くの器楽曲の名品が作曲されました。しかし、この幸福な日々も、レオポルト公の2度目の后妃が音楽嫌いであったために、バッハは外に就職先を求めることになり終止符が打たれます。そして、1723年にトマス教会カントル兼ライプツィヒ市音楽監督となります。この仕事は市内4つの主要教会に音楽を提供し、しかも教会付属の寄宿制学校の生徒を指導するという激務でした。バッハはこの地位を全うし、1750年7月28日に亡くなりました。

バッハの声楽作品のうち、各主日の礼拝のための教会カンタータの作曲は、日常の職務上の義務でした。それに対して、今日世俗カンタータと分類されるものは主に何らかの祝賀行事の、そしてモテットは主に葬儀や追悼式といった特別の機会に、依頼を受けて作曲したものでした。バッハにとっては、臨時収入を得る良い機会だったようです。現在、バッハのモテットは6曲が知られています。モテット第5番「来てください、イエスよ、来てください」BWV229は、 2つの四声部の合唱による二重合唱の編成で、1730年に作曲されました。このモテットがどのような機会のために作曲されたかは、正確にはわかっていませんが、元カントルであったシェレの未亡人の追悼式に演奏されたのではないかと推定されています。テキストは、ヨハネ福音書第14章第6節と、それに基づくティミッヒ作による葬送用のコラール詩から成ります。死に際してのイエスへの呼びかけを、厳粛に歌うと共に抒情的な美しさにも満ちた名曲といえましょう。

モテット第6番「主を讃美せよ、すべての異邦人よ」BWV230は、詩篇第117篇をテキストとする四声部の曲です。この曲は、自筆譜や初期の手稿譜などが残っていないため、偽作説やカンタータの一部であったのではないかなど、いろいろな議論がされております。また当然のことながら、作曲年代や用途なども一切不明のままです。しかし、一聴すれば音楽のスタイルなどからバッハの真作であると、どなたも納得されることでしょう。曲は祝祭的な明るさに満ち、終結部は輝かしい3拍子のアレルヤでしめくくられます。

*  *  *

音楽の歴史の上でハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンが活躍した「ウィーン古典派」の時代は空前の黄金時代であったといえるでしょう。ヨゼフ・ハイドンはこの3人の中で、最も早く生まれ、今日「交響楽の父」あるいは「弦楽四重奏の父」と呼ばれるように、この時代の音楽の様式の基礎を築きました。ハイドンは1723年3月31日、オーストリアとハンガリーとの国境近くのローラウという村に生まれます。父親は車大工でした。美しい声を持っていたハイドンは、1740年、8歳でウィーン聖シュテファン教会の少年聖歌隊員になります。しかし変声期をむかえた17歳の年、1749年には聖歌隊を去らなければなりませんでした。その後の10年間は不安定な生活の中で、作曲や演奏の修行をすることになります。そして、1759年にパトロンの推挙によって、ハイドンはボヘミアのルカヴィーツェに領地のあるモルツィン伯爵の宮廷に、楽長兼作曲家の職を得ることになります。ハイドンの初期の交響曲は、この時期に作曲されています。ところが財政上の問題から、宮廷楽団はその年のうちに解散を余儀なくされます。そこでハイドンは、モルツィン伯の推薦によって、1761年にアイゼンシュタットのエステルハージ家の副楽長となり、のち1766年には楽長に昇進し、君主ニコラウス候がなくなる1790年まで、30年間にわたってこの宮廷に勤めることになります。その後ハイドンは、1791年~92年、1794~95年と2回に渡ってロンドンを訪れます。これは、ヴァイオリン奏者兼興行師ザロモンの招きによるものです。このときに、有名な「軍隊」や「時計」などを含む12曲の「ロンドン交響曲」が作曲されました。ハイドンの創作は、1803年の弦楽四重奏曲op.103まで続きます。そして、1809年5月31日にナポレオン占領下のウィーンで、77歳の人生を閉じました。多くの参会者が教会堂を埋めつくした追悼式では、モーツァルトのレクイエムが演奏されたのでした。

ハイドンは、器楽曲の作曲家としてのイメージが強いのですが、オペラや教会音楽などの声楽曲も数多く作曲しています。カトリックのミサ曲も14曲残しています。本日演奏いたしますミサ曲「聖ヨハネ・デ・デオのミサ・ブレヴィス」は、1775年頃に愛徳修道会アイゼンシュタット女子修道院礼拝堂のために作曲されました。二声部のヴァイオリンと通奏低音に四声部の合唱という小さな編成で演奏できますので、ドイツ語圏の聖歌隊で実際の礼拝でよく歌われるレパートリーとなっています。

曲はミサ曲の定型である、キリエ、グロリア、クレド、サンクトゥス、ベネディクトゥス、アニュス・デイの6章から成っています。グロリアとクレドでは演奏時間短縮のため、複数の歌詞を同時に歌うポリテクスチュアの箇所があります。また、ベネディクトゥスは、ソプラノ独唱にオルガンのオブリガートが付きます。そのためこの曲は「小オルガン・ミサ」とも呼ばれています。

*  *  *

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、ハイドンが生まれた年から24年後の、1756年1月27日にザルツブルクに生まれます。父レオポルドは、ザルツブルク大司教の下で副楽長を務めていました。レオポルドは一流の音楽家ではなかったかもしれませんが、その教会音楽作品やヴァイオリンの教則本は今日にも伝わっています。レオポルドはアマデウスに音楽教育をほどこし、6歳のときからしばしば一緒に旅行をします。行先は南はナポリ、北はドーバー海峡を渡ってロンドンと広い範囲に及びます。これらの旅行を通じて、レオポルドはアマデウスの才能を世に紹介すると共に、アマデウスに当時の各地の最高の音楽に接する機会を作りました。アマデウスはザルツブルクにおいて、1772年に有給のコンサートマスターに、そして1779年には大司教の宮廷オルガニストに採用されますが、1781年に大司教と決定的な不和となり、以降、活動の場をウィーンに移すことになります。ウィーンでのアマデウスは、当初「後宮よりの逃走」などで大成功を収めますが、次第に人気は下火となり、晩年には多くの借金をしなければならなくなります。その理由としては、モーツァルトの音楽が当時の聴衆にとってあまりにも前衛的なものになってしまったからである、とか、「フィガロの結婚」の体制批判的内容が貴族社会にとってあまりにスキャンダラスであったからである、といったような意見がありますが、真相はいまだ不明です。そのような状況の中で1791年12月5日、レクイエムを作曲中に35歳で病死してしまいます。

ハイドンとモーツァルトは年齢差が24歳もあり、また、根本的に対照的な性格であったようですが、互いに尊敬を寄せ合い親密な交友がありました。モーツァルトが、今日「ハイドン・セット」と呼ばれる6曲の弦楽四重奏曲を1785年にハイドンに献呈しています。また、ハイドンがロンドンへ行く直前の別離の時、モーツァルトは激しく泣き、ハイドンを両腕で抱きしめて、こう言いました。「私は心配なんです、お父さん。最後の別れを述べているみたいで。」そして1790年12月15日にハイドンは旅立ちます。そしてこのモーツァルトの言葉は的中してしまいます。しかし、1年後にモーツァルト自身の方が死んでしまうというようなことは、思いもよらなかったでしょう。

*  *  *

モーツァルトは生涯に約700曲の作品を残しましたが、そのうち約1割が教会音楽です。本日は、そのうち珠玉の小品4曲をお聴きいただきます。

「テ・デウム」K.141は、1964年に改訂されたケッヘル番号ではK.66bとなっています。これが1769年、モーツァルト13歳の作品であると知ったら、どなたでも驚くことでしょう。「テ・デウム」のテキストは、四世紀のミラノの司教・聖アンブロシオの作とされる神への感謝の賛歌です。この曲では冒頭の力強いアレグロ、短いアダージョ、3拍子の部分、そして終結のフーガというように変化に富んだ作曲となっています。

「主のあわれみを」K.222は、 1775年にミュンヘン選帝候からの「対位法の作品を聴きたい」というリクエストに応えて作曲されました。冒頭と各区切りに置かれた和声的な部分、厳粛な第1主題とそれに対応する柔和な第2主題、オーケストラに現れる「第九」の歓喜の歌を短調にしたような挿入句といった楽想が、見事なコントラストと調和を形造ります。

「聖なるマリア、神の御母」K.273は1777年9月に作曲されました。その後モーツァルトは、マンハイムからパリへと求職活動のための旅行をするのですが、それを前にしての個人的な祈願としての作曲と考えられています。残念ながら、この旅行中に母はパリで亡くなり、パリの宮廷人は大人になったモーツァルトには興味を示しませんでした。しかし、この曲ですでにモーツァルトは、一般的に「人間」という存在では不可能な完全な創造物を創り出す、という奇跡を当然のように成し遂げているように思います。

更にすごいのは、「アヴェ・ヴェルム・コルプス」K.618です。この曲は、モーツァルトがその死の半年前、 1791年6月17日にバーデンの教師兼合唱指揮者である友人アントン・シュトルのために作曲しました。このわずか46小節の、見開き2ページの楽譜に書かれた奇跡の産物を、私達は何と言ったらよいのでしょうか。しかも素晴らしいことに、私達はそれを声を気軽に合わせて歌って楽しんでよいのです。

本日の演奏をお聴きになって、そのような楽しみを共に味わいたいと思った方は、どうぞ私達の練習においで下さるようお願いいたします。

 この春、北海道へ転勤された柏崎哲氏が、6月7日夜不慮の交通事故により逝去されました。享年43歳という若さでした。
柏崎氏は、13年前につくば古典音楽合唱団が創立された時の中心メンバーでした。団員向けに毎月発行している「合唱団通信」も、第1号は柏崎氏の手書きのものでした。その通信も今月で143号を数えています。また、柏崎氏は、学生時代に東大柏葉会合唱団の学生指揮者を経験していて、つくば古典音楽合唱団でも私が練習に出席できない時には、代わって練習をつけていただきました。
柏崎氏は特にシュッツとバッハの音楽を好んでいました。私に「シュッツの音楽を聴くと背筋がピンと伸びるような気がします」と語っていた氏の表情が今でも目に浮かびます。また、5年前ガーディナー指揮、モンテヴェルディ合唱団の演奏会がノバホールで行われた時、偶然柏崎氏が隣の席に座っていて、一緒に素晴らしいバッハのロ短調ミサの演奏を楽しんだことも、今では思い出として語らなければなりません。
本日ここで、あらためて柏崎氏のご冥福をお祈りします。そして、柏崎氏が今居られる所にも私たちの歌声が届くよう、一所懸命演奏いたしますので聴いてください。合唱団がここまでになる礎をつくってくれて、本当にありがとう。

 


<オルガン曲> 渡部聡

リチェルカーレ ハ短調
ヨーハン・パッヘルベル(1653-1706)は大バッハの一世代前の中・南部ドイツを代表する作曲家です。バッハ家とも交流があり、大バッハの兄ヨーハン・クリストフの教師でもありました。「パッヘルベルのカノン」ばかりが有名になってしまいましたが、多くのオルガン曲、特に様々なスタイルによるコラール編曲や声楽作品で後世に大きな影響を残しました。
リチェルカーレは対位法に基づくやや古風なスタイルの作品です。最初の2つの部分で半音階主題とその転回主題が提示された後、最後の部分で新たな主題が展開され、さらにそれが最初の半音階主題に組み合わされます。

アルカデルトのマドリガーレによるパッサジャート トッカータ第9番(第2巻より)
ジロラモ・フレスコバルディ(1583-1643)は、イタリア初期バロックの作曲家のなかでも、後世への影響という点でとりわけ重要な人物です。 1608年、25歳の若さでローマのサンピエトロ大聖堂のオルガニストとなったフレスコバルディは、当時から鍵盤楽器の輝かしい大家としての名声を博し、スター的な存在でした。彼のもとにはヨーロッパ各地から優秀な弟子が集まり、その直接、間接の影響は18世紀半ばに至るまで顕著に見られます。多くの鍵盤曲の中でも特にトッカータは、それまでのアルカイックなスタイルから、よりダイナミックで叙情性に富み、柔軟性をもった形式へと発展させられ、バロック期を通じて鍵盤音楽の代表的な形式となりました。
第2巻のトッカータ第9番は、曲尾に冗談めかして「疲れることなしには最後まで行き着かない」と記され、異なった拍子を左右で同時に奏したり、内声でトリルを弾きながら両外声を16分音符で奏したり、と、フレスコバルディの作品中で最も技術的に難しい曲です。
声楽曲マドリガーレに装飾(ディミニューション)を施して器楽曲とすることは当時大変流行していました。鍵盤楽器ではアンドレア・ガブリエリ等が有名ですが、フレスコバルディではこのアルカデルトの原曲に基づく作品が唯一のものです。


【歌詞対訳】

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