第25回定期演奏会《すべての亡くなられた方々のたましひのために》2011.11.19

<演奏者>
指揮 鈴木優/ソプラノ 永崎京子/メッゾ・ソプラノ 米谷朋子/テノール 坂本貴輝/バリトン 米谷毅彦/コンサート・ミストレス 神戸愉樹美/オーケストラ つくば古典音楽合奏団(ヴァイオリン 神戸愉樹美、夏目美絵、本多洋子、宮崎容子、小林瑞葉、宮崎桃子;ヴィオラ 諸岡涼子、今野千穂;チェロ 髙橋弘治、夏秋裕一;コントラバス 諸岡典経;バセットホルン 坂本徹、李胎蓮;ファゴット 淡島宏枝、中田小弥香;トランペット 中村孝志、中村肇;トロンボーン/サックバット 武田美生、小野加奈代、生稲雅威;ティンパニ 鈴木力;オルガン 渡部聡)/合唱 つくば古典音楽合唱団


<プログラムと演奏録音>

Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791) ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
Missa brevis in C »Spatzenmesse« , KV 220 (196b) ミサ・ブレヴィス ハ長調 「雀のミサ」
Ⅰ. Kyrie あわれみの賛歌(キリエ) 25-01.mp3 1:52
Ⅱ. Gloria 栄光の賛歌(グローリア) 25-02.mp3 3:15
Ⅲ. Credo 信仰宣言(クレド) 25-03.mp3 4:21
Ⅳ. Sanctus 感謝の賛歌(サンクトゥス) 25-04.mp3 1:00
Ⅴ. Benedictus (ベネディクトゥス) 25-05.mp3 3:28
Ⅵ. Agnus Dei 平和の賛歌(アニュス・デイ) 25-06.mp3 3:48
-休憩-
W. A. Mozart (1756-1791) モーツァルト
Requiem, KV 626 レクイエム
Ⅰ. Introitus: Requiem 入祭唱「永遠の安息を」 25-07.mp3 5:27
Ⅱ. Kyrie あわれみの賛歌(キリエ) 25-08.mp3 2:54
Ⅲ. Sequenz: Dies irae 続唱「怒りの日」
No.1 Dies irae  1. 怒りの日 25-09.mp3 1:56
No.2 Tuba mirum  2. くすしきラッパの音が 25-10.mp3 3:37
No.3 Rex tremendae  3. みいつの大王 25-11.mp3 2:29
No.4 Recordare  4. 思い出したまえ 25-12.mp3 5:48
No.5 Confutatis  5. 呪われし者らを黙らせ 25-13.mp3 2:59
No.6 Lacrimosa  6. 涙の日 25-14.mp3 3:29
Ⅳ. Offertorium: Domine Jesu 奉献唱「主イエス・キリストよ」
No.1 Domine Jesu  1. 主イエス・キリストよ 25-15.mp3 4:10
No.2 Hostias  2. 供物と祈りを 25-16.mp3 4:30
Ⅴ. Sanctus 感謝の賛歌(サンクトゥス) 25-17.mp3 1:51
Ⅵ. Benedictus (ベネディクトゥス) 25-18.mp3 6:03
Ⅶ. Agnus Dei 平和の賛歌(アニュス・デイ) 25-19.mp3 3:55
Ⅷ. Communio: Lux aeterna 聖体拝領唱「永遠の光が」 25-20.mp3 6:12

<プログラムノート> 鈴木優

本日はお忙しい中、つくば古典音楽合唱団第25回定期演奏会にご来場いただき、ありがとうございます。3月11日に発生した東日本大震災は私たちに大きな衝撃を与えました。当合唱団でも震災の後、3回の練習が中止となりました。しかし余震の不安のある中で再開された練習では音楽をする喜びを一層強く感じることができました。また、私たちが被災地のためにできることとして、3月26日に個人宅で小さなチャリティーコンサートを行い、5月29日には、つくば市在住の音楽家たちによって企画・運営されたノバホールでのチャリティーコンサートに合唱団として参加し、《レクイエム》の一部を演奏いたしました。

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本日の第25回演奏会では、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の《レクイエム KV626》と「雀のミサ」の愛称で知られる《ミサ・ブレヴィス KV220》を演奏いたします。

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アマデウス・モーツァルトは1756年1月27日にザルツブルクに生まれました。父、レオポルドは有能な音楽家でした。アマデウスは5歳のときにすでにピアノの小品を作曲し、レオポルドはそれらの曲を書き留めています。1762年から1772年にかけてはヨーロッパ中の宮廷で神童としてもてはやされました。馬車による長旅は、幼いアマデウスにとっては苦痛であったでしょう。しかし、この時期に各地で当時の最高の音楽を体験できたことは、後の創作のための貴重な財産となりました。当時のザルツブルクは、ローマ・カトリック教会の大司教が領主として教会と世俗の両面で統治する、大司教領でした。アマデウスは当時の大司教コロレドから1772年にコンサートマスター、そして1779年には宮廷オルガニストに任命されます。アマデウスは外国での仕事を望んでいましたが、コロレドは長期の休暇を与えることを渋ったので、この二人の間には対立が生じました。1773年からアマデウスは職を求めて、再び各地の宮廷を訪ねる旅行をします。しかし、ことごとく求職活動に失敗し失意のうちにザルツブルクに帰ることとなります。アマデウスとコロレドの対立は次第に深刻なものとなります。1781年6月8日にはウィーンにおいてコロレド側近のアルコ伯爵がアマデウスの背中を蹴りつけて、館の外に追い出すという決定的な事態になってしまいました。アマデウスはウィーンにとどまり、1782年8月4日に父の反対をおしてコンスタンツェ・ヴェーバーと結婚しました。この年の7月には《後宮よりの逃走》が大好評を博し、アマデウスはウィーンで大人気の音楽家となります。その人気は1787年のプラハでの《ドン・ジョヴァンニ》の初演で、ピークを迎えますが、その後アマデウスの人気は下降線をたどり、残りの4年間は常に借金をし続ける必要に迫られました。人々がアマデウスに対する関心を失った理由としては、「モーツァルトの音楽が当時の聴衆の耳には、あまりにも前衛的なものとなってしまった(ヨーゼフⅡ世は、モーツァルトの音楽がウィーン人の趣味には合わないと語っています)」「《フィガロの結婚》において貴族階級を風刺する内容が反感を買った」など様々な見解があります。経済的困窮の中アマデウスは1791年12月5日に35歳で亡くなります。死亡者台帳には「急性粟粒発疹熱」と死因が記録されています。葬儀は最低の等級で行われ、墓地まで同行した会葬者はいなかったため、埋葬された墓地の正確な場所はわからなくなってしまいました。

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本日の演奏会の前半に演奏いたします《ミサ・ブレヴィス KV220》は1775年1月にミュンヒェンにおいて作曲されたと推定されています。このミサ曲は〈サンクトゥス〉に現れる小鳥のさえずりのような音型から「雀のミサ」の愛称で知られています。大司教コロレドは啓蒙主義の方針による近代化から、ミサの短縮化を命じました。荘厳なミサにおいてもミサの音楽部分の合計が45分を超えてはならないとされたので、この時期のモーツァルトのミサ曲はミサ・ブレヴィスとよばれる、短く簡潔な形式をとっています。この曲は標準的なミサ曲として、ミサ通常文である〈キリエ〉、〈グローリア〉、〈クレド〉、〈サンクトゥス〉、〈ベネディクトゥス〉、〈アニュス・デイ〉の6楽章で構成されています。

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《レクイエム KV626》はモーツァルトの未完で残された最後の作品です。《レクイエム》という曲名は、カトリック教会における死者のためのミサの冒頭の言葉である”Requiem aeternam”(安らぎを、永遠の)が通称となったものです。本来、カトリック教会の教義では、死者は最後の審判において天国に行くのを待っている存在であり、死者のためのミサは、死者が最後の審判に当たって、天国に行けることを神に願うための典礼です。それゆえ一般的に非キリスト者が考える《レクイエム》=《鎮魂曲》というイメージは正確ではありません。しかしながら《レクイエム》=《死者に対しての追悼の音楽》という理解は一般的に認知されていると言えるでしょう。そこで私たちも《レクイエム》の意味を拡大解釈して、この演奏会が、演奏する私たちと皆様にとって「すべての亡くなられた方々のたましひのために」思いを寄せる機会となればと、このような一文を添えさせていただきました。

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モーツァルトの《レクイエム》の成立については、かつて様々なロマンティックな伝説がまとわり付いていました。「1791年晩春にモーツァルトは、名前も告げない灰色の服を着た男から《レクイエム》の作曲を依頼され、謝礼の半額を前金として受け取った」という言い伝えがあります。また、オペラの台本作者ダ・ポンテ宛の手紙には「私の頭は混乱しています。あの見知らぬ男の姿が目の前から追い払えません。最後の時が鳴っているように思われます。これは私の葬送の歌です。未完成に残すわけにはいきません」と記されていたと言われていましたが、この手紙自体が偽作だとされています。そして1964年に公表されたアントン・ヘルツォークによる記述により、モーツァルトは1791年夏にヴァルゼック=シュトゥパハ伯爵から「2月14日に20歳で亡くなった妻の記念に、《レクイエム》を1曲作曲してほしい」という通知を受け取ったことが明らかになりました。ヴァルゼック伯爵は自分の城で私的な演奏会を開き、様々な作曲家の作品を取り上げていましたが、自分でパート譜を筆写して作曲者が誰であるかを当てさせるという趣味がありました。モーツァルトが《レクイエム》の作曲を開始したのは1791年9月以降と考えられています。12月5日に亡くなった時点で完成していたのは冒頭の〈イントロイトゥス〉の部分だけでした。以下、〈キリエ〉はほぼ完成。〈ディーエス・イレ〉から〈コンフターティス〉および〈ドミネ・イエズ〉と〈ホスティアス〉は声楽パート部分のすべてと通奏低音、および一部の重要なオーケストラ・パートが残されています。〈ラクリモーザ〉は2小節の前奏と、第8小節目までの声楽パートが残されています。ここがモーツァルトの絶筆の箇所です。〈サンクトゥス〉から〈アニュス・デイ〉には自筆の資料は残されていません。〈コムニオ〉は〈イントロイトゥス〉の歌詞を付け替えたものです。モーツァルトが完成できなかった部分は弟子のジュスマイヤーによって補筆されました。おそらくジュスマイヤーはモーツァルトの死の直前に、《レクイエム》を完成させるための指示を受けていただろうと推測されます。

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本日は古楽器によるオーケストラと共にA=430Hzのピッチで演奏いたします。これは古典派の時代にウィーンで一般的に使われたピッチであり、現代の古楽器による古典派作品の演奏における標準のピッチです。ちなみに現代の標準ピッチA=440Hzは1939年にロンドンでの国際会議で決められたものです。


【歌詞対訳】

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