第29回定期演奏会《ハイドン、66歳の力作<ネルソン・ミサ>》2015.12.13

<演奏者>
演奏者】
揮揮 鈴木優/ソプラノ 岩見真佐子/メッゾ・ソプラノ 米谷朋子/テノール 谷川佳幸/バリトン 米谷毅彦/コンサート・ミストレス 神戸愉樹美/オーケストラ つくば古典音楽合奏団(第1ヴァイオリン 神戸愉樹美、中西美絵、本多洋子、宮崎桃子;第2ヴァイオリン 天野寿彦、宮崎蓉子、影山優子、大久保幸子;ヴィオラ 諸岡涼子、中島由布良;チェロ 高群輝夫、小林奈那子;コントラバス 諸岡典経;トランペット 中村孝志、中村肇;ティンパニ 鈴木力、オルガン 渡部聡)/合唱 つくば古典音楽合唱団


<プログラムと演奏録音>

WolfgangAmadeus Mozart (1756-1791) ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
Sancta Maria, mater Dei, KV273 神の御母なる聖マリア 29-01.mp3 3:00
Misericordias Domini, KV222 (205a) 主のあわれみを 29-02.mp3
Dixit et Magnificat, KV193 (186g) ディクシットとマニフィカト 29-03.mp3
-休憩-
Joseph Haydn (1732-1809) ヨーゼフ・ハイドン
Missa in Angustiis “Nelsonmesse”, Hob. XXII:11 ミサ ニ短調《ネルソン・ミサ》
Ⅰ. Kyrie  あわれみの賛歌(キリエ) 29-04.mp3
Ⅱ. Gloria  栄光の賛歌(グローリア) 29-05.mp3
Ⅲ. Credo  信仰宣言(クレド) 29-06.mp3
Ⅳ. Sanctus  感謝の賛歌(サンクトゥス) 29-07.mp3
Ⅴ. Benedictus  感謝の賛歌(続き)(ベネディクトゥス) 29-08.mp3
Ⅵ. Agnus Dei  平和の賛歌(アニュス・デイ) 29-09.mp3
Encore: Mozart, Ave verum corpus, K.618 29-10.mp3

<プログラムノート> 鈴木優

本日は、つくば古典音楽合唱団第29回定期演奏会にご来場いただき、ありがとうございます。しばしの間、合唱と管弦楽そして声楽ソリストによる楽興の時をお楽しみいただければ幸いです。

本日の演奏会ではヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Mozart, Wolfgang Amadeus 1756‐1791)の20歳前後の小品とヨーゼフ・ハイドン(Haydn, Joseph 1732‐1809)が66歳の年に作曲したミサ曲をお聴きいただきます。

ハイドンとモーツァルトは24歳という年齢差にもかかわらず友人同士でした。モーツァルトは1782年から1785年にかけて作曲した6曲の弦楽四重奏曲をハイドンに献呈しました。今日《ハイドン四重奏曲》と呼ばれるこの6曲は傑作揃いのモーツァルトの音楽の中でも特に水準の高いものとして知られています。また、モーツァルトはフリーメイソンの会員であり、ウィーンで「真の融和」ロッジと「善行」ロッジに属していました。モーツァルトはハイドンをフリーメイソンに誘い、入会の仲立ちをしました。ハイドンも1785年に「真の融和」ロッジに入会します。モーツァルトは同時にハイドンを父のように慕っていました。1790年12月にハイドンがロンドンへ行く時に、モーツァルトはハイドンに「私は心配なのです、お父さん、最後の別れを述べているみたいで」と言いました。この言葉は思いがけずモーツァルト自身の死によって現実のものとなってしまいます。

アマデウス・モーツァルトは1756年1月27日にザルツブルクに生まれました。父、レオポルト(Mozart, Leopold 1719‐1787)は有能な音楽家でした。アマデウスは5歳のときにすでにピアノの小品を作曲し、レオポルドはそれらの曲を書き留めています。1762年から1772年にかけてはヨーロッパ中の宮廷で神童としてもてはやされました。馬車による長旅は、幼いアマデウスにとっては苦痛であったでしょう。しかし、この時期に各地で当時の最高の音楽を体験できたことは、後の創作のための貴重な財産となりました。 当時のザルツブルクは、ローマ・カトリック教会の大司教が領主として教会と世俗の両面で統治する、大司教領でした。アマデウスは当時の大司教コロレド(Colloredo, Hieronymus Joseph Franz de Paula 1732‐1812)から1772年にコンサートマスター、そして1779年には宮廷オルガニストに任命されます。アマデウスは外国での仕事を望んでいましたが、コロレドは長期の休暇を与えることを渋ったので、この二人の間には対立が生じました。1773年からアマデウスは職を求めて、再び各地の宮廷を訪ねる旅行をします。しかし、ことごとく求職活動に失敗し失意のうちにザルツブルクに帰ることとなります。アマデウスとコロレドの対立は次第に深刻なものとなります。1781年6月8日にはウィーンにおいてコロレド側近のアルコ伯爵(Arco, Karl Joseph Maria Felix 1743 – 1830)がアマデウスの背中を蹴りつけて、館の外に追い出すという決定的な事態になってしまいました。 アマデウスはウィーンにとどまり、1782年8月4日に父の反対をおしてコンスタンツェ・ヴェーバー(Weber, Constanze 1762‐1824)と結婚しました。この年の7月には《後宮よりの逃走》が大好評を博し、アマデウスはウィーンで大人気の音楽家となります。その人気は1787年のプラハでの《ドン・ジョヴァンニ》の初演で、ピークを迎えますが、その後アマデウスの人気は下降線をたどり、残りの4年間は常に借金をし続ける必要に迫られました。

人々がアマデウスに対する関心を失った理由としては、「モーツァルトの音楽が当時の聴衆の耳には、あまりにも前衛的なものとなってしまった」(ヨーゼフⅡ世(Joseph II, 1741 – 1790)は、モーツァルトの音楽がウィーン人の趣味には合わないと語っています)「《フィガロの結婚》において貴族階級を風刺する内容が反感を買った」など様々な見解があります。経済的困窮の中アマデウスは1791年12月5日に35歳で亡くなります。死亡者台帳には「急性粟粒発疹熱」と死因が記録されています。葬儀は最低の等級で行われ、墓地まで同行した会葬者はいなかったため、埋葬された墓地の正確な場所はわからなくなってしまいました。

《神の御母なる聖マリア、KV273》は1777年の作品です。この年にモーツァルトは職を求めて9月から1年4か月にわたってパリ、マンハイムなどを訪れる旅行をしました。この曲は旅行を前にしたモーツァルトが個人的な祈願として作曲したのではないかと考えられています。しかし、この旅行ではモーツァルトが望むような職はなにもえられず、さらに旅先のパリで母が亡くなるという悲しいものとなってしまいました。 《主のあわれみを KV222 / 205a》は1775年にミュンヒェンで作曲されました。モーツァルトは「選帝侯殿下が私の対位法の作品を何か聞きたいとご所望になったのでこのモテットを書いた」と語っています。モーツァルトはかつて師事したボローニャの「厳格対位法様式」の大家マルティーニ神父にこの曲の楽譜を送り、意見を求めています。そのことからモーツァルトにとって、この対位法によって作曲された作品が自信作であったことがうかがえます。 《ディクシットとマニフィカト KV193 / 186g》は1774年7月にザルツブルクの宮廷の教会のために作られました。この2楽章は晩課(ヴェスペレ)のための音楽です。カトリック教会には聖務日課という一日の祈りのプログラムがありますが、晩課は夕方から夜にかけての祈りです。モーツァルトは後に1779年と1780年にヴェスペレを作曲しておりますが、本日演奏しますのはその先駆となる最初の曲です。

ハイドン、モーツァルト、そしてベートーヴェン(Beethoven, Ludwig van 1770‐1827)が活躍した「ウィーン古典派」の時代は音楽史上の空前の黄金時代でした。ハイドンはこの3人の中で、最も早く生まれています。今日「交響楽の父」あるいは「弦楽四重奏の父」と呼ばれるように、ソナタ形式を中心としたこの時代の音楽の様式の基礎を築きました。 ハイドンは1732年3月31日、オーストリアとハンガリーとの国境近くのローラウという村に生まれました。父マティアス(Haydn, Mathias 1699‐1763)は車大工でしたが、後に市場裁判官を務めました。美しい声を持っていたハイドンの音楽的才能に気付いた父の義弟フランク(Frank, Johann Mathias 1708‐1783)が5歳のハイドンを引き取り教育を与えました。フランクはハインブルクで学校の校長であり教会音楽家でした。1739年にハインブルクを訪れたウィーン聖シュテファン教会楽長のロイター(Reutter, Karl Georg 1708‐1772)に見いだされ、ハイドンは1740年より聖シュテファン教会の少年聖歌隊員になります。しかし変声期をむかえた17歳の年、1749年には聖歌隊を去らなければなりませんでした。その後の10年間は不安定な生活の中で、作曲や演奏の修行をしました。そして1759年にパトロンの推挙によって、ハイドンはボヘミアのルカヴィーツェに領地のあるモルツィン伯爵(Graf von Morzin 1693‐1763)の宮廷に、楽長兼作曲家の職を得ることができました。ハイドンの初期の交響曲は、この時期に作曲されています。ところが財政上の問題から、宮廷楽団はその年のうちに解散を余儀なくされます。ハイドンは、モルツィン伯の推薦によって1761年にアイゼンシュタットのエステルハージ家の副楽長となりました。1766年には楽長に昇進し、君主ニコラウス一世(Fürst Nikolaus Joseph Esterhazy 1714‐1790)が亡くなる1790年まで、30年間にわたってこの宮廷に勤めました。その後ハイドンは、1791年~92年、1794~95年と2回に渡ってロンドンを訪れます。これはヴァイオリン奏者兼興行師ザロモン(Salomon, Johann Peter 1745‐1815)の招きによるものです。ハイドンはロンドンで歓待をもって迎えられ大人気を博し、多大な収入を得ました。この機会に、有名な《軍隊》や《時計》などを含む12曲の《ロンドン交響曲》が作曲されました。ロンドンからの帰国後はエステルハージ家の新しい君主ニコラウス二世(Fürst Nikolaus Esterhazy 1765‐1833)の要請により1795年より再びエステルハージ家の楽長となります。その後もハイドンの創作意欲は衰えず1803年まで作曲を続けました。1803年の引退後も自分の作品の補筆やイギリスの出版社のための民謡の編曲などを1806年まで続けました。そして、1809年5月31日にナポレオン占領下のウィーンで、77歳の人生を閉じました。6月15日にショッテン教会で追悼式が行われ多くの参会者が教会堂を埋めつくし、モーツァルトのレクイエムが演奏されたのでした。

ハイドンは、器楽曲の作曲家としてのイメージが強いのですが、オペラやオラトリオ、教会音楽などの声楽曲も数多く作曲しており、カトリックのミサ曲も14曲残しています。ハイドンはロンドンから帰った後、1796年~1802年にかけて6曲のミサ曲をエステルハージ家のために作曲しました。これらのミサ曲はマリア・ヨゼファ・ヘルメネギルト・エステルハージ侯爵夫人(Esterhazy, Maria Josepha Hermenegild 1768‐1845)の命名祝日にアイゼンシュタットのベルク教会で初演されました。本日演奏いたします《ネルソン・ミサ》は1798年に作曲され、その年の9月23日に侯爵夫人の命名祝日のミサで初演されたと推定されます。ハイドンは1798年4月29日に《天地創造》を初演していますので、《ネルソン・ミサ》はこのオラトリオの成立の直後、あるいは同時期に作曲されたことになります。 ハイドンがこのミサ曲を作曲中にイギリスのネルソン提督がナイル河口でナポレオン艦隊を撃破したという知らせが届きました。そのこととベネディクトゥスのソプラノのアリアの後で、トランペットのファンファーレが鳴り響くことからこの曲が《ネルソン・ミサ》と呼ばれるようになったとされています。またネルソン提督は1800年にアイゼンシュタットを訪れています。 この曲もミサ曲の定型通り〈キリエ〉〈グロリア〉〈クレド〉〈サンクトゥス〉〈ベネディクトゥス〉〈アニュス・デイ〉の6楽章から成っていますが、〈グロリア〉〈クレド〉の2楽章は歌詞の構成に応じて細分されています。編成は四声部の合唱、4人のソリスト、オーケストラは弦楽合奏とオルガンに2本のトランペット、ティンパニが加わります。

本日は古楽器によるオーケストラと共にA=430Hzのピッチで演奏いたします。これは古典派の時代にウィーンで一般的に使われたピッチであり、現代の古楽器による古典派作品の演奏における標準のピッチです。ちなみに現代の標準ピッチA=440Hzは1939年にロンドンでの国際会議で決められたものです。


【歌詞対訳】

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