第31回定期演奏会《ウィーン古典派のミサ曲 1780-82》2017.12.23 ノバホール

<演奏者>
揮揮 鈴木優/ ソプラノ 和泉純子/ メゾ・ソプラノ 紙谷弘子/ テノール 谷川佳幸/ バリトン 佐野正一/ コンサート・ミストレス 神戸愉樹美/ オーケストラ つくば古典音楽合奏団(第1ヴァイオリン 神戸愉樹美 阪永珠水 宮崎桃子 佐々木梨花; 第2ヴァイオリン 天野寿彦 奥村琳 影山優子 松橋輝子; ヴィオラ 小林瑞葉 中島由布良; チェロ 高群輝夫 小林奈那子; コントラバス 井上陽; オーボエ 榊原明美 平地友佳; ファゴット 鈴木禎、長谷川太郎; トランペット 金城和美 村上信吾; ティンパニ 鈴木力; オルガン 渡部聡)/ 合唱 つくば古典音楽合唱団


<プログラムと演奏録音>

Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791) ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
Missa in C, “Missa solemnis”, KV 337 ミサ・ソレムニス ハ長調
Ⅰ. Kyrie  あわれみの賛歌(キリエ) 31-01.mp3 3:00
Ⅱ. Gloria  栄光の賛歌(グローリア) 31-02.mp3
Kirchensonate Nr. 17 in C, KV336 (336d) 教会ソナタ17番 ハ長調 31-03.mp3
Ⅲ. Credo  信仰宣言(クレド) 31-04.mp3
Ⅳ. Sanctus  感謝の賛歌(サンクトゥス) 31-05.mp3
Ⅴ. Benedictus  感謝の賛歌(続き)(ベネディクトゥス) 31-06.mp3
Ⅵ. Agnus Dei  平和の賛歌(アニュス・デイ) 31-07.mp3
-休憩-
Joseph Haydn (1732-1809) ヨーゼフ・ハイドン
Missa Cellensis, “Mariazellermesse”, Hob. XXII:8 マリアツェル・ミサ
Ⅰ. Kyrie  あわれみの賛歌(キリエ) 31-08.mp3
Ⅱ. Gloria  栄光の賛歌(グローリア) 31-09.mp3
Ⅲ. Credo  信仰宣言(クレド) 31-10.mp3
Ⅳ. Sanctus  感謝の賛歌(サンクトゥス) 31-11.mp3
Ⅴ. Benedictus  感謝の賛歌(続き)(ベネディクトゥス) 31-12.mp3
Ⅵ. Agnus Dei  平和の賛歌(アニュス・デイ) 31-13.mp3
ごあいさつ 31-14.mp3
Encore: Georg Friedrich Händel (1685-1759), Messiah, HWV.56, “Hallelujah” 31-15.mp3

<プログラムノート> 鈴木優

本日は、つくば古典音楽合唱団第31回定期演奏会にご来場いただき、ありがとうございます。当合唱団は発足時には16世紀ルネサンスの音楽やシュッツからバッハに至るバロック音楽をレパートリーの中心としていましたが、2011年からはハイドン、モーツァルト、シューベルトといったウィーン古典派の音楽に集中して取り組んでいます。様々な国や時代の音楽を歌うことは楽しいことですが、時代や地域を限定して、その中での音楽の違いを楽しみ演奏様式を身につけるのも有意義なことではないかと考えております。

本日の演奏会ではヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Mozart, Wolfgang Amadeus 1756-1791)とヨーゼフ・ハイドン(Haydn, Joseph 1732-1809)がほぼ同じ頃に作曲したミサ曲をお聴きいただきます。

ハイドンとモーツァルトは24歳という年齢差にもかかわらず友人同士でした。モーツァルトは1782年から1785年にかけて作曲した6曲の弦楽四重奏曲をハイドンに献呈しました。今日《ハイドン四重奏曲》と呼ばれるこの6曲は傑作揃いのモーツァルトの音楽の中でも特に水準の高いものとして知られています。また、モーツァルトはフリーメイソンの会員であり、ウィーンで「真の融和」ロッジと「善行」ロッジに属していました。モーツァルトはハイドンをフリーメイソンに誘い、入会の仲立ちをしました。ハイドンも1785年に「真の融和」ロッジに入会します。モーツァルトは同時にハイドンを父のように慕っていました。1790年12月にハイドンがロンドンへ行く時にモーツァルトはハイドンに「私は心配なのです、お父さん、最後の別れを述べているみたいで」と言いました。この言葉は思いがけずモーツァルト自身の死によって現実のものとなってしまいます。モーツァルトの死に際してハイドンは「今後100年は、これほどの天才は現れないだろう」と語りました。古典派音楽の研究者であるロビンス・ランドン(Landon, Howard Chandler Robbins 1926-2009) はこのハイドンの言葉に寄せて「だが、200年経ってもまだ現れていない」と付け加えました。

アマデウス・モーツァルトは1756年1月27日にザルツブルクに生まれました。父、レオポルト(Mozart, Leopold 1719-1787)は有能な音楽家でした。アマデウスは5歳のときにすでにピアノの小品を作曲し、レオポルトはそれらの曲を書き留めています。1762年から1772年にかけてはヨーロッパ中の宮廷で神童としてもてはやされました。馬車による長旅は、幼いアマデウスにとっては苦痛であったでしょう。しかし、この時期に各地で当時の最高の音楽を体験できたことは、後の創作のための貴重な財産となりました。
当時のザルツブルクは、ローマ・カトリック教会の大司教が領主として教会と世俗の両面で統治する、大司教領でした。アマデウスは当時の大司教コロレド(Colloredo, Hieronymus Joseph Franz de Paula 1732-1812)から1772年にコンサートマスター、そして1779年には宮廷オルガニストに任命されます。アマデウスは外国での仕事を望んでいましたが、コロレドは長期の休暇を与えることを渋ったので、この二人の間には対立が生じました。1773年からアマデウスは職を求めて、再び各地の宮廷を訪ねる旅行をします。しかし、ことごとく求職活動に失敗し失意のうちにザルツブルクに帰ることとなります。アマデウスとコロレドの対立は次第に深刻なものとなります。1781年6月8日にはウィーンにおいてコロレド側近のアルコ伯爵(Arco, Karl Joseph Maria Felix 1743-1830)がアマデウスの背中を蹴りつけて、館の外に追い出すという決定的な事態になってしまいました。
アマデウスはウィーンにとどまり、1782年8月4日に父の反対をおしてコンスタンツェ・ヴェーバー(Weber, Constanze 1762-1824)と結婚しました。この年の7月には《後宮よりの逃走》が大好評を博し、アマデウスはウィーンで大人気の音楽家となります。その人気は1787年のプラハでの《ドン・ジョヴァンニ》の初演で、ピークを迎えますが、その後アマデウスの人気は下降線をたどり、残りの4年間は常に借金をし続ける必要に迫られました。

人々がアマデウスに対する関心を失った理由としては、「モーツァルトの音楽が当時の聴衆の耳には、あまりにも前衛的なものとなってしまった(ヨーゼフⅡ世(Joseph II, 1741-1790)は、モーツァルトの音楽がウィーン人の趣味には合わないと語っています)」「《フィガロの結婚》において貴族階級を風刺する内容が反感を買った」など様々な見解があります。経済的困窮の中アマデウスは1791年12月5日に35歳で亡くなります。死亡者台帳には「急性粟粒発疹熱」と死因が記録されています。葬儀は最低の等級で行われ、墓地まで同行した会葬者はいなかったため、埋葬された墓地の正確な場所はわからなくなってしまいました。

《ミサ・ソレムニス ハ長調 KV337》はモーツァルトが24歳の年である1780年の復活祭のために作曲されました。モーツァルトは16曲の完成したミサ曲を残していますが、その大部分はザルツブルクの教会ために作られました。ザルツブルクの宮廷音楽家であったモーツァルトにとってミサ曲の作曲は職業上の義務でした。《ミサ・ソレムニス KV337》はザルツブルク時代に作曲された最後のミサ曲であり、モーツァルトが完成させた最後のミサ曲です。これ以降のウィーン時代に於いてモーツァルトは教会とは職業的な結びつきはありませんでした。そのため作曲したミサ曲は個人的な動機によって書かれ、どちらも未完に終わった《ハ短調ミサ KV427》と《レクイエム KV626》の2曲だけとなります。《ハ短調ミサ》は依頼されたものではなく、コンスタンツェと結婚できた感謝を捧げるミサのための音楽なので完成させる必要がなかったのでしょう。《レクイエム》はモーツァルトの死によって未完成のまま残されました。
この《ミサ・ソレムニスKV337》の1年前には《戴冠ミサ KV317》が作曲されています。親しみやすさ、知名度、演奏頻度では《戴冠ミサ》が上回りますが、洗練された優美さ、多様な各楽章の個性といった点では《ミサ・ソレムニスKV337》の方が上回るのではないかと思われます。大司教コロレドはミサのための音楽の作曲に対して「45分以上かかるものであってはならない」という規則を設けました。そのような制約の中でモーツァルトは《ミサ・ソレムニスKV337》においても凝縮された、しかも多様なスタイルの音楽を残しました。優雅さと力強さを合わせ持つ〈キリエ〉、合唱と独唱による協奏様式の〈グローリア〉、冒頭の8小節の主題が様々なエピソードの合間に回帰するロンド形式を持つ〈クレド〉、荘厳さと歓喜にあふれる〈サンクトゥス〉フーガによる〈ベネディクトゥス〉、ソプラノ独唱の美しいアリアで始まる〈アニュス・デイ〉、というように30分程の間にモーツァルトの音楽のエッセンスが次々と現れます。本日は〈グローリア〉と〈クレド〉の間に、《ミサ・ソレムニスKV337》のために作曲された教会ソナタKV336を演奏いたします。教会ソナタは、当時のミサに於いて 使徒書簡朗読と福音書朗読の間で演奏された器楽曲です。

ハイドンは1732年3月31日、オーストリアとハンガリーとの国境近くのローラウという村に生まれました。父マティアス(Haydn, Mathias 1699-1763)は車大工でしたが、後に市場裁判官を務めました。美しい声を持っていたハイドンの音楽的才能に気付いた父の義弟フランク(Frank, Johann Mathias 1708-1783)が5歳のハイドンを引き取り教育を与えました。フランクはハインブルクで学校の校長であり教会音楽家でした。1739年にハインブルクを訪れたウィーン聖シュテファン教会楽長のロイター(Reutter, Karl Georg 1708-1772)に見いだされ、ハイドンは1740年より聖シュテファン教会の少年聖歌隊員になります。しかし変声期をむかえた17歳の年、1749年には聖歌隊を去らなければなりませんでした。その後の10年間は不安定な生活の中で、作曲や演奏の修行をしました。そして1759年にパトロンの推挙によって、ハイドンはボヘミアのルカヴィーツェに領地のあるモルツィン伯爵(Graf von Morzin 1693-1763)の宮廷に、楽長兼作曲家の職を得ることができました。ハイドンの初期の交響曲は、この時期に作曲されています。ところが財政上の問題から、宮廷楽団はその年のうちに解散を余儀なくされます。ハイドンは、モルツィン伯の推薦によって1761年にアイゼンシュタットのエステルハージ家の副楽長となりました。1766年には楽長に昇進し、君主ニコラウス一世(Fürst Nikolaus Joseph Esterhazy 1714-1790)が亡くなる1790年まで、30年間にわたってこの宮廷に勤めました。その後ハイドンは、1791年~92年、1794~95年と2回に渡ってロンドンを訪れます。これはヴァイオリン奏者兼興行師ザロモン(Salomon, Johann Peter 1745-1815)の招きによるものです。ハイドンはロンドンで歓待をもって迎えられ大人気を博し、多大な収入を得ました。この機会に、有名な《軍隊》や《時計》などを含む12曲の《ロンドン交響曲》が作曲されました。ロンドンからの帰国後はエステルハージ家の新しい君主ニコラウス二世(Fürst Nikolaus Esterhazy 1765-1833)の要請により1795年より再びエステルハージ家の楽長となります。その後もハイドンの創作意欲は衰えず1803年まで作曲を続けました。1803年の引退後も自分の作品の補筆やイギリスの出版社のための民謡の編曲などを1806年まで続けました。そして、1809年5月31日にナポレオン占領下のウィーンで、77年に及ぶ生涯を閉じました。6月15日にショッテン教会で追悼式が行われ多くの参会者が教会堂を埋めつくし、モーツァルトのレクイエムが演奏されたのでした。

ハイドンは、器楽曲の作曲家としてのイメージが強いのですが、オペラやオラトリオ、教会音楽などの声楽曲も数多く作曲しており、カトリックのミサ曲も14曲残しています。
《マリアツェル・ミサ Hob.ⅩⅩⅡ:8》は1782年、ハイドンが50歳の年の作品です。ハイドンの自筆譜のタイトルには”Missa Cellensis Fatta per il Signor Liebe de Kreutzner. In Nomine Domini”と書かれています。これは「修道院のミサ曲、クロイツナー家のリーベ氏のために作りしもの、主の名において」といった意味です。このミサ曲はハイドンの友人であるアントン・リーベ(Liebe, Anton 生没年不詳)が1781年3月に貴族に列せられた際に、マリアツェルでの祝賀会の感謝の捧げものとしてハイドンに作曲を依頼したものです。マリアツェルは今日、ウィーンから鉄道で西南方向に3時間の所にあるシュタイヤーマルク州の町で、オーストリアで最も有名な17世紀に建てられたバロック様式の巡礼教会があります。ハイドンは1782年に入ってから作曲を始め、その年の夏に初演されました。ロビンス・ランドンはこの曲に対して「民族的、大衆的なものとウィーン古典派の語法と様式による対位法的要素との驚嘆すべき結合」と最大限の賛辞を送っています。一般にウィーン古典派の同時代の作曲家としてハイドンとモーツァルトの音楽は一括りの似たような音楽と捉えられがちですが、本日の演奏会のように同じ曲種、しかもほぼ同時期に作曲されたものを続けてお聴きいただけば、この二人の音楽家の個性がそれぞれ、どれほど違うものであるかをお感じいただけるのではないでしょうか。1991年がモーツァルトの没後200年という記念の年であったこともあり20世紀の最後の四半世紀はモーツァルトの時代であったと言えるでしょう。しかし実際にハイドンの演奏に携わってみると和声においても対位法においても、いかにハイドンの音楽の力が大きいかを思い知らされます。今後ますますハイドンに対する評価は高まっていくことでしょう。

本日は古楽器によるオーケストラと共にA=430Hzのピッチで演奏いたします。これは古典派の時代にウィーンで一般的に使われたピッチであり、現代の古楽器による古典派作品の演奏における標準のピッチです。ちなみに現代の標準ピッチA=440Hzは1939年にロンドンでの国際会議で決められたものです。


【歌詞対訳】

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