【プログラムノート】


合唱曲             鈴木優

 本日の演奏会では、16世紀、後期ルネサンスを代表する作曲家パレストリーナ、 そして19世紀後期ロマン派の時代に高く聳える二人の巨匠、ブラームスと ブルックナーの合唱作品をお聴きいただきます。

 ルネサンス期で最も重要な作曲家のひとりであるパレストリーナは、ローマ近郊の パレストリーナという所に生まれました。正式な名前は、ジョヴァンニ・ピエルル イージ・ダ・パレストリーナですが、出身地の名前が本人の通称となっています。 生年は1525年と推定されていますが、未だ特定されていません。
 1554年に故郷でオルガニストとなり、その後は1551年にローマ・聖ピエトロ寺院 歌手、1554-60年ラテラーノ教会楽長、1567年エステ枢機卿楽長、1571年には 聖ピエトロ寺院第2楽長の地位を得ました。その生涯のほとんどをローマで過ごし、 90以上のミサ曲、500曲以上のモテット、約100曲のマドリガルなどの作品を残しま した。
 パレストリーナの音楽の特徴は、その先達である15-16世紀前半のフランドル出身 の音楽家たちが極めた声楽ポリフォニーの技法と、イタリア的な旋律や豊かな和声を 統合したものであるといえるでしょう。順次進行の多い柔らかな旋律線、安定した 協和音、バスの声部がポリフォニーの一声部を担いながら、同時にほとんどの個所 で和声の根音となっていること、不協和音が注意深く控えめに用いられている、と いったことが、パレストリーナ独特の調和のとれた、清純で透明な世界を形成して います。
 詩篇第42編をテキストとする"Sicut cervus"と、続けて演奏いたします "Sitivit anima mea"は、1581年に出版された"第2モテット集"に収められています。 この曲の冒頭では、同じ旋律がテノール、アルト、ソプラノ、バスという順に出て きます。各声部が独立して動きつつ、絡みあいながら音楽を構築してゆくのが お聴きになれると思います。これがこの時代の合唱曲の基本である声楽ポリフォニー の様式です。
 "Super flumina Babylonis"も1581年の曲集の中の曲で、パレストリーナ自身が 最も好んだ曲と伝えられています。哀調を帯びたこのモテットのテキストは、詩篇 第137編から採られています。紀元前586年にイスラエル民族のユダ王国が バビロニアによって滅ぼされ、エルサレムの住民がバビロニアに連行される という、いわゆる"バビロン捕囚"という事件が起こります。この詩篇は、その 捕囚民の望郷の思いと悲しみを歌ったものです。
 "Dies Sanctificatus"は1561年の"第1モテット集"の中にあり、クリスマスの ための曲です。"地上にもたらされた光"そのもののような明るい響きを持ってい ます。そして終結部は歓喜に満ちた3拍子の舞曲によって締めくくられます。

 19世紀後半の音楽界は、急進派である"ヴァーグナー派"と保守派である "ブラームス派"の2大党派にわかれ、論争が繰り広げられました。ブルックナーは 第3交響曲を献呈するほどのヴァーグナーの心酔者でしたので、ブラームスとは ライヴァル関係であると目されていました。しかし当人同士は直接には、その論争に 関与していたわけではなく、お互いの作品を表面上では、理解の外にあるといった ような態度を取りながらも、強い関心を持ち合っていたと言えるでしょう。相反する 陣営に属し作風も異なる二人ですが、合唱に強い関心を示し、すばらしい作品を 残し、また合唱指揮者としての経歴を持っていたことは大きな共通点であります。

 ヨハネス・ブラームスは1833年5月7日にハンブルクで生まれます。父は町の楽師で あり、"息苦しいほど小さな部屋"に4人の家族が住むといった貧しい生活だったよう です。10代前半のヨハネスは、音楽の勉強をするかたわら、酒場やダンスホールで ピアノを弾き、家計を助けなければなりませんでした。1853年9月30日にブラームス はシューマンを訪ね、自作の曲を演奏します。シューマン夫妻はその才能に感嘆し、 "新音楽時報"に熱烈な賛辞である"新しい道"と題するエッセイを書いてブラームスを 世に紹介します。1857年にブラームスはデトモルトの宮廷で初めて定職を得ます。 その内容は合唱の指揮とピアノを教えることでした。そして1859年、ピアノ協奏曲 第1番の初演失敗、婚約者アガーテとの別離の後、ブラームスは故郷ハンブルクに 引き篭り、そこで女声合唱団を指導することになります。この時期には、"12の歌曲 とロマンツェ op.44"をはじめとして多くの合唱曲が作曲されました。
 本日演奏いたします"Marienlieder op.22"も、この年に書かれました。この7曲 からなる連作歌曲のテキストは、ドイツに古くから伝わる、聖母マリアに関する 民衆的な詩から取られています。ブラームスは民謡に強い関心を持ち、多くの合唱 編曲、またはピアノ伴奏の付与を行なっています。この曲の旋律はブラームス自身 による創作と思われますが、どれも民謡調であり、実際の民謡の編曲とほとんど 区別がつきにくいまでになっています。
 第1曲"Der englische Gruss "と第4曲"Der Jaeger"はルカ伝中の"天使祝詞"の パラフレーズであり、少々ユーモラスでさえある受胎告知の場です。天使の吹く ホルンが音画的に描かれているのも、とても楽しいものです。
 第2曲、第3曲は民衆的なマリア伝説であり、 ここでもいっせいに響き始めた鐘に音画的表現が用いられて います。また第3曲終結部の"天国が無法な力によって踏みにじられた"の部分の 迫真の書法も注目されるべきでしょう。第5曲ではマリアに対する心からの敬虔な 祈りが捧げられ、第6曲はマグダラのマリアにイエスの復活が告げられる場面です。 終曲では5節からなるマリアへの賛美が歌われます。
 この素朴で愛すべき合唱曲を歌い、あるいは聴くということは、中世に描かれた 様々なマリアのエピソードをモチーフとした教会の祭壇画を丹念に見てゆくといった 趣があると思われます。

 今年はアントン・ブルックナーの没後100年という記念すべき年にあたります。 当つくば古典音楽合唱団といたしましても、ブルックナーのモテットを演奏する ことによって、ささやかながらのオマージュを捧げたいと思います。
 ブルックナーは1824年9月4日、オーストリア、リンツ南方のアンスフェルデンと いう寒村に生まれます。父は村の小学校の教師であり、また教会の聖歌隊指揮者や オルガニストでもありました。ブルックナー自身は13歳で聖フローリアン修道院の 聖歌隊員になりますが、その後は一時父に倣って教員を志望します。1848-1856年 の8年間は聖フローリアンのオルガニストとして過ごしますが、同時に教師の仕事を しています。1856年にリンツ大聖堂のオルガニストに就任しますが、ブルックナーが 音楽家としての生活を自分の人生と考えるようになったのは、この32歳の年からで あったようです。
 ブルックナーは今日では交響曲の作曲家として知られていますが、このような経歴 からも、カトリックの教会音楽がその創作の基礎であると言えるでしょう。また リンツでのブルックナーは男声合唱団"フロージン"で合唱指揮者としての手腕を 発揮し、合唱団の力を向上させ、ドイツやオーストリアでの合唱祭でも高い評価を 得るようになります。ブルックナーは1868年にウィーン音楽院教授、並びに宮廷 礼拝堂オルガニストとなり、以降の人生をウィーンで過ごすこととなります。
 "Locus iste"は1869年8月11日の日付が付けられており、同年9月の新リンツ 大聖堂の献堂式で歌われたと思われます。
 "Christus factus est"は1884年にウィーンで初演されました。テキストは 新約聖書のピリピ人への手紙第2章から採られています。
 "Os justi"は交響曲第5番が完成された翌年の1879年に聖フローリアンの合唱 指揮者、イグナーツ・トラウミーラーの要望により、8月28日の聖アウグスティヌス の祝日のために作曲されました。この合唱指揮者は、パレストリーナを理想とし、 教会音楽を浄化しようとする"チェチーリア運動"の主唱者でした。ブルックナーも そのことを充分考慮し、このモテットの作曲では教会旋法を用い、シャープ、 フラットを使わないなどといった制約を自らに課しました。
 "Ave Regina coelorum"は本来、単旋律の歌唱声部とオルガンの伴奏という型で 作曲されていますが、本日はオルガンの独奏でお聴きいただきます。この曲は あたかもグレゴリオ聖歌の和声付けのように響きますが、この旋律もブルックナー 自身による創作です。
 "Ave Maria"は1861年5月12日、リンツの合唱団"フロージン"によって初演され ました。テキストはルカ伝中の"天使祝詞"による7声のモテットです。
 "Virga Jesse"は1885年に作曲されましたが、すでに前年に交響曲第7番が初演 されており、後期の最円熟期の内容を持つ極めて完成度の高い曲となっています。 テキストは旧約聖書の民数記第17章によっています。
 ブルックナーの音楽には、宇宙や大自然の様相から民族的な舞曲までが渾然一体 となっております。しかしこれら無伴奏の教会音楽には、その中でも特に崇高な 部分が純粋に結晶化していると感じられます。今後さらにブルックナーの教会音楽を 歌い、あるいは聴く機会が増えることを願ってやみません。


オルガン曲             渡部 聡

 オルガン独奏で演奏される3曲は、ベルナルド・ストラーチェの現存する唯一の 曲集である「種々の作品の森、チェンバロとオルガンのための インタヴォラトゥーラ」(1664年、ヴェネツィアにて出版)から採られている。 ストラーチェについては、この曲集のタイトルベージに記されている「メッシーナ 市の議会附属礼拝堂副楽長」という肩書き以外、何もわかっていない。鍵盤音楽の 発展に絶大な影響力を及ぼしたフレスコバルディから約半世紀経過しているものの、 その伝統はいまだ衰えることなく続いている。しかし、一方で、形式が整理され、 単純化してゆく傾向が見られる。曲集全体に創意と活力が溢れ、この時期の鍵盤 音楽がけっしてマンネリズムに陥っていないことを示している。
 「トッカータ」は、短い即興的な部分を両端に持ち、主題の上で関連をもつ 4拍子と3拍子の2つのカンツォーナが主要な部分を成している。「モニカ」は、 当時広く知られていた歌の旋律による8つの変奏で、最後の2つの変奏はコレンテ (3拍子系の舞曲)と記されている。「フォリア」はコレッリやヴィヴァルディの 作品が有名だが、同じ低音進行のパターンに基づく18の変奏である。後の時代の 作品よりも、舞曲としての性格を強く残している。


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