<演奏者>
指揮 鈴木優 / オルガン 渡部聡 / 合唱 つくば古典音楽合唱団
<プログラムと演奏録音>
G. Frescobaldi (1583-1643) | フレスコバルディ | |
Orgel: Toccata prima (Libro I) | トッカータ第1番 | 11-01.mp3 5:30 |
A. Hammerschmidt (1611-1675 ) | ハンマーシュミット | |
O barmherziger Vater | おお、慈悲深き父よ | 11-02.mp3 3:30 |
G. A. Homilius (1714-1785) | ホミーリウス | |
Unser Vater in dem Himmel | 主の祈り | 11-03.mp3 4:28 |
G. Frescobaldi (1583-1643) | フレスコバルディ | |
Orgel: Partita sopra passacagli (Libro I) | パッサカリア | 11-04.mp3 3:06 |
H. Schuetz (1585-1672) | シュッツ | |
Geistliche Chormusik | 『教会合唱曲集』より | |
Herr, auf dich traue dich SWV 377 | 主よ、私はあなたを信頼します | 11-05.mp3 2:59 |
Die mit Traenen saeen SWV 378 | 涙をもって種蒔く者は | 11-06.mp3 3:45 |
Verleih uns Frieden gnaediglich, SWV 372 | 私たちに平安をお恵みください | 11-07.mp3 2:32 |
J. J. Froberger (1616-1667) | フローベルガー | |
Orgel: Toccata XIII | トッカータ第13番 | 11-08.mp3 2:57 |
J. S. Bach (1685-1750) | バッハ | |
Der Geist hilft unser Schwachheit auf, BWV 226 | 御霊は我らの弱きを助けたもう | 11-09.mp3 8:38 |
-休憩- | ||
J. K. Kerll (1627-1693) | ケルル | |
Orgel: Toccata quarta | トッカータ第4番 | 11-10.mp3 6:35 |
F. Mendelssohn Bartholdy (1809-1847) | メンデルスゾーン | |
Jauchzet dem Herrn alle Welt | 全地よ、主を歓喜せよ | 11-11.mp3 4:13 |
Denn er hat seinen Engeln befohlen | なぜなら彼は天使たちに命じて | 11-12.mp3 3:26 |
G.Muffat (1653-174) | ムッファト | |
Orgel: Ciacona | チャコーナ | 11-13.mp3 3:35 |
J. Brahms (1833-1897) | ブラームス | |
Warum ist das Licht gegeben op.74-1 | 何ゆえに光が与えられたのか | 11-14.mp3 8:50 |
Encore: J. Brahms, Abschied (Ich fardahin) | 11-15.mp3 4:15 | |
Encore: J. S. Bach, Der Geist hilft unser Schwachheit auf, BWV 226 | 11-16.mp3 4:47 |
<プログラムノート> 鈴木優
本日お聴きいただく合唱曲は、17世紀から19世紀にわたる3世紀間のドイツの作曲家によるプロテスタント教会の宗教合唱曲です。
1517年にマルティン・ルター(1483-1546)は、当時のカトリック教会の免罪符(正式には、贖猶状。教会が金銭によって売り出す、「罪の赦し」を保証するお札)をはじめとする腐敗に対し、「95カ条」の意見書をヴィッテンベルクの教会の扉に貼り出します。この一件を機にルターによる宗教改革が進み、新しいキリスト教会の一派が生まれることとなります。その新しい一派をプロテスタント教会、あるいはルター派教会と呼びます。
プロテスタントには「抵抗する」といった意味がありますね。ルターの改革の中で、教会音楽に与えた大きな変化は、ドイツ語の歌詞で一般の会衆が自ら歌える讃美歌(コラール)を制定したことです。 1524年には、すでに最初の讃美歌集「ヴィッテンベルク聖歌集」が出版されています。ルターは聖書をドイツ語訳することで、一般の信者がその内容を直接に理解できるようにしました。そして音楽の面でも、会衆はそれまでの専門の聖歌隊のみによって歌われるラテン語の音楽を受動的に、ただ聴くという立場から、自らの言葉、自らの声によって歌うという能動的な立場となりました。
ルターの宗教改革は革新的な部分がクローズ・アップされて受け取られる傾向にありますが、実際にはそれまでのカトリックの伝統も尊重されていることも重視するべきでしょう。ルターの死後、かなり後でも、その礼拝はドイツ語とラテン語の両方を部分によって用いていました。また新しく制定された讃美歌も、新たに作曲されたもの(ルター自身も作曲をしました)、民謡などに宗数的な歌詞を付けたものなどと並んでグレゴリオ聖歌にドイツ語の歌詞を付けたものも重要な位置をしめることとなります。
このようにして、宗教改革は、真のドイツ的音楽の発展の契機となり、その讃美歌(コラール)は、その後の音楽家たちに豊かな音楽的素材を提供することとなります。
アンドレアス・ハンマーシュミットは、1611年にボヘミア地方のブリックスに生まれ、1675年にザクセン地方のツィッタウで没した17世紀中期を代表する教会音楽の作曲家です。
“O barmherziger Vater” は、心からの悔悛、そして主なる父にあわれみを乞うといった内容のモテットです。
16世紀までにフランドルやイタリアで極限までに発展したポリフォニー(各声部が独立して旋律を紡いでいきながら進行する音楽のスタイルです。カノンやフーガを御想像下さい)の技法で作曲されています。その旋律線はイタリアのパレストリーナなどの音楽に比べますと、ドイツ語自体の持つアクセントや、その内在される旋律線の影響によりやや角ばったものになっています。
まだIch armer Sünder komm zu dir’(あわれな罪人である私は、あなたのもとに行く)の部分での半音階の使用、’Erbarme dich meiner ‘(私をあわれんでください)の部分での言葉の反復、’Ich bitte dich’ (お願いします)での下降する六度音程の使用などは、17世紀バロック音楽に特有の語法と言えるでしょう。
ゴットフリート・ホミーリウスは1714年にザクセン地方のローゼンタールで生まれ、1785年にドレスデンで没しています。ホミーリウスは、1735年にライプツィヒの大学に入学し法律を学びますが、同時にこの時期にバッハに作曲と鍵盤楽器の演奏を師事しました。そして1755年には、ドレスデン十字架教会のカントール(教会の音楽的責任者、聖歌隊の指導やラテン語学校で教えることなど多忙な役職)に就任します。
“Unser Vater in dem Himmel” は、マタイ伝6章9 -13の「主の祈り」です。弟子たちから「どのように祈れば良いのでしょう」とたずれられたイエスが、自ら示した祈りです。
今日でもプロテスタント、カトリックにかかわらず世界中の教会が、その礼拝のたびに必ず唱えるものです。当合唱団でも、第9回演奏会で、ヴェルディ作曲によるイタリア語の「主の祈り」を演奏いたしました。
ホミーリウスによる作曲では、18世紀の音楽らしくホモフォニー(各声部が同時に動き、和音の流れの形成を重視しながら進行するタイプの音楽)の部分が優勢ですが、終結部は力強いフーガとなっています。また、中間部の’Und vergib unsunsre Schulden’ (私たちの罪をお許し下さい)では不協和音や半音階を用いた和音の響きが、とても印象的です。
ハインリッヒ・シュッツこそは、ドイツ音楽史上、ついに現れた最初の偉大な作曲家です。
シュッツは1585年、ライプツィヒの南にあるテューリンゲン丘陵地帯のケストリッツという村に生まれます。少年時代は美しいソプラノの声を持っており、それを聞いた君主のモーリッツ辺境伯の下、カッセルで教育を受けつつ、聖歌隊で活躍します。そして、1609年には辺境伯の援助により、イタリアのヴェネツィアに留学し当地でジョヴァンニ・ガブリエリに師事します。当時、ドイツは音楽的には周辺国に比べ、後進国であり、有能な人材は主にイタリアヘ修業に送り出されました。
3年間の留学の後、シュッツはドレスデンのザクセン選挙侯の礼拝堂楽長となり、87才で亡くなる1672年まで、半世紀以上にわたり当地での活動を続けました。 本日演奏いたします3曲のモテットは1648年にライプツィヒ市議会に献呈された、29曲から成る「ガイストリッヒェ・コーアムジーク」中の曲です。 シュッツは、イタリアで当時の進んだ音楽技術を学びました。第2回目のヴェネツィア訪問ではモンテヴェルディからも学んでいます。しかしシュッツはこの曲集では、古い技法である厳格なポリフォニーを指向しています。ここでは分析的なことよりも、これらの曲がドイツの歴史上大きな悲劇である三十年戦争(1618-1648)の時期に作曲されたということを是非心に留めていただきたく思います。
この戦争によってドイツの人口の3分の1が失われたとも言われています。シュッツの活動の拠点である宮廷楽団も大幅に規模が縮小され解散寸前にまで追いこまれます。シュッツ自身の知人、友人にも戦争の犠牲となった者もいたでしょう。そういった状況の中での、”Herr, auf dich traue ich”(主よ、あなたを信頼します)、”Die mit tränen säen “(涙をもって種蒔く者は)、”Verleih unsFrieden “(私たちに平安を与えて下さい)といった聖句に託した、心からの訴えに耳を傾けていただきたいと思います。
シュッツが生まれた年からちょうど100年後の1685年、中部ドイツの小都市アイゼナッハにヨハン・セバスティアン・バッハが生まれます。
バッハの家系は代々音楽家が多く、教会のオルガニスト、カントール、あるいは町楽師といった職業音楽家として活躍した者が多くありました。ヨハン・セバスティアンの父、アンブロジウスも町楽師であったと想像されます。バッハはアルンシュタット、ミュールハウゼンでオルガニストを勤めた後、ヴァイマール、そしてケーテンの宮廷に就職し、その後1723年ライプツィヒ・トーマス教会のカントールに就任します。そして65才で亡くなる1750年まで、ずっとライプツィヒで生活することになります。
このようにバッハの職歴や旅行の記録を見ますと、その行動範囲は現在のドイツの北東部の狭い地域に限られています。 100年前に生まれたシュッツがヴェネツィアやデンマークを訪れたり、また同年生まれのヘンデルがロンドンで活動したりしたのとは対照的です。
バッハがトマス・カントールに就任する際、ライプツィヒの参事会は本来テレマンを望みましたが、断わられたため「最良の人が得られなければ、中くらいの者でも採用しなければならない」といった意見も出たといわれています。またバッハの方でも前職の宮廷楽長より地位が下がるので、あまり気が進まなかったようです。
数多くの衝突や困難もありましたが、バッハは勤勉に職務を果たしたようです。毎日曜日の礼拝のためのカンタータは今日約200曲が残っていますが、バッハは5年分のカンタータのストックを持っていたといわれていますので、その生涯に300曲は作曲したことでしょう。
モテットDer Geist hilft unser Schwachheit auf ” は1729年10月24日に行われたトマス学校長J.H.エルネスティの葬儀で歌われました。
曲の冒頭は2つの四声部合唱が、かけ合う二重合唱で’Geist ‘(霊)という言葉が、肉体から解き放たれたかのように軽やかなメリスマで歌われます。この部分はやがて実質五声部のフーガに移行し、更にやや古風な四声部のフーガが続き、最後は、コラールの四声体で締めくくられます。全曲を通じてテキストの論理的なつながりが音化されていく様が実に見事です。
プログラムの後半ではロマン派の作品をお聴きいただきます。
フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディは1809年ハンブルクに生まれます。祖父はユダヤ人として初めてドイツ語で論文を書いたといわれる啓蒙哲学者モーゼス・メンデルスソーン。そして父はベルリンの銀行家であり、ユダヤ教からプロテスタントに改宗しました。
このように、文化的にも経済的にも恵まれた環境にあったメンデルスソーンは、いわゆる神童であり、幼少の頃からその音楽的才能を発揮しました。作品番号1として出版されたピアノ四重奏曲第1番は、12才の時の作品です。これら10代前半の室内楽作品はとても美しい曲ですので、是非御一聴をおすすめいたします。
メンデルスソーンは早くから宗教音楽にも強い関心を持ち、10才の時にベルリン・ジングアカデミーに入団し、バッハ、ヘンデル、パレストリーナといった音楽の演奏に参加しました。
1829年には長く忘れられていたバッハのマタイ受難曲を、初演から100年後にベルリンで自らの指揮で再演しました。また作曲活動の上でも、「聖パウロ」「エリア」という大きなオラトリオをはじめ、沢山の合唱曲を残しています。
“Jauchzet dem Herrn alle Welt” は詩篇第100番、”Denn er hat seinenEngeln befohlen ” は第91番と、どちらも旧約聖書の詩篇をテキストとしています。2曲ともホモフォニックなスタイルの曲ですが、美しい和音による合唱の響きを究極まで追求したものと言えるでしょう。メンデルスソーンの音楽を深みに欠けるとする論調はしばしば耳にするところですが、この2曲はすでに十二分にメンデルスソーンの天才の証明であると思います。
メンデルスソーンは1847年にライプツィヒで、その短い生涯を閉じています。今年が没後150年であることを付記いたします。
ヨハネス・ブラームスは1833年ハンブルクに生まれ、1897年にヴィーンで亡くなりました。今年は没後100年の記念すべき年となります。
ブラームスは、その才能をシューマンによって見出され、世に知られていきます。19世紀後半には急進派のヴァーグナー派に対抗する保守派の代表とされますが、そういった論争に直接ブラームスがかかわることはありませんでした。
その創作は民謡の編曲から交響曲まで、オペラ以外のすべての分野に及びました。また合唱音楽とのかかわりとしては、自らデトモルト、ハンブルク、ヴィーンで合唱指揮を行ないました。特にヴィーン・ジングアカデミーの演奏会では、バッハや16世紀のポリフォニー合唱曲などを多くプログラムに載せました。
“Warum ist das Licht gegeben ” は1879年に作曲され作品74- 1として出版されました。この曲は演奏時間10分程度の曲ですが、ブラームスの宗教音楽としては「ドイツ・レクイエム」「四つの厳粛な歌」と並ぶ重要な曲です。
旧約聖書、新約聖書、そしてルターのコラールから選ばれた、「苦しむ者に安らぎたる死が与えられる」といった主題を形作るテキストの組み合わせは、ブラームス自身によるものです。
1曲目は全声部で歌われる’Warum?’(何故)という問いかけに続いて厳格なフーガが現われます。このフーガは後に出る声部がそれぞれ先行する声部より4度ずつ低い調になっていくという複雑なものです。 2・3曲目では先ほどのバッハのモテットのように次第に謎が説き明かされていくかのような展開が注目されます。そして終曲の四声体によるコラールは、ブラームスのこの曲の形式が、バッハの様式によっていることを明らかにしています。
ルターによって生まれたコラールがドイツ・プロテスタント教会の音楽の歴史を、その縦糸として、しっかりと結びつけている例のひとつの証明となることでしょう。
<オルガン曲> 渡部聡
1608年、25歳の若さでローマのサン・ピエトロ大聖堂のオルガニストとなったフレスコバルディは、当時から鍵盤楽器の輝かしい大家としての名声を博し、その後の鍵盤音楽の発展に多大の影響を残しました。本日のオルガンソロの曲目は、フレスコバルディと、その直接、間接の弟子達の作品を集めてみました。
フレスコバルディの作品からは、即興的でファンタジーに富むトッカータと、オスティナートバスの上に変奏が展開されるパッサカリアを演奏します。
フローベルガーはヴィーンの宮廷オルガニストで、皇帝フェルディナント3世の奨学金を得てローマでフレスコバルディに師事しました。その後、ヨーロッパ各地を旅行し、特にフランスのクラヴサン楽派の様式による組曲も多数残しています。トッカータ第13番は、2つの対位法的な部分が大半を占め、即興的な部分の比重が後退しています。
ケルルはミュンヘンのバヴァリア選帝公の楽長で、やはりローマヘ留学し、カリッジミに師事しました。鍵盤音楽には、フレスコバルディ様式のトッカータやカンツォーナ等があります。 トッカータ第4番は、半音階や不協和音、繋留を多用した、聖体奉挙(エレヴァツィオーネ)のための楽曲です。
ムッファトはパリでリュリに、また、ローマでパスクィーニやコレッリに師事し、当時の音楽先進国フランスとイタリア両方の様式をドイツにもたらし、混合様式の基礎を築いた作曲家といえます。ヴィーンやアウグスブルクの宮廷で活躍し、オーケストラのための組曲や合奏協奏曲の他に鍵盤音楽でも優れた作品を残しています。チャコーナは「シャコンヌ」のイタリア語で、短い低音進行の定型が繰り返される上で変奏が展開されます。