第14回定期演奏会《合唱二都物語》2000.11.23

<演奏者>
指揮 鈴木優 / ソプラノ 山内房子 / テノール 大島博 / バス 山崎岩男 / コンサート・ミストレス  神戸愉樹美 / 合奏 つくば古典音楽合奏団 (第1ヴァイオリン 神戸愉樹美,保科由貴 ; 第2ヴァイオリン 松永綾子,宮崎容子 ; ヴィオラ 山廣みほ ; チェロ 成田陽子 ; コントラバス 田中洪至 ; オルガン 渡部聡) / オルガン 渡部聡 / 合唱 つくば古典音楽合唱団


<プログラムと演奏録音>

anon. 作曲者不詳
Tokkata (Die Lüneburger Orgeltabulatur Nr.3) トッカータ(リューネブルグオルガンタブラチュアより) 14-01.mp3 3:23
Heinrich Schütz (1585-1672) シュッツ
“Das ist je gewißlich wahr”, SWV388 「この言葉は確かに真実である」 14-02.mp3 5:02
Johann Sebastian Bach (1685-1750) バッハ
Andante (von Sonate d-moll, BWV964) アンダンテ(ソナタ ニ短調 BWV964より) 14-03.mp3 3:32
Johann Sebastian Bach (1685-1750) バッハ
“Singet dem Herrn ein neues Lied”, BWV225 「主に向かって新しい歌をうたえ」 14-04.mp3 4:50
14-05.mp3 4:42
14-06.mp3 1:40
14-07.mp3 2:22
-休憩-
Franz Schubert (1797-1828) シューベルト
Deutsche Messe, D872 ドイツ・ミサ曲より
  Zum Eingang   入祭唱のために 14-08.mp3 2:20
  Zum Gloria   グロリアのために 14-09.mp3 2:34
  Zum Evangelium und Credo   福音朗読とクレドのために 14-10.mp3 2:34
  Zum Sanctus   サンクトゥスのために 14-11.mp3 2:42
  Zum Agnus Dei   アニュス・デイのために 14-12.mp3 2:22
  Schluァgesang   閉祭の歌 14-13.mp3 1:49
Franz Schubert (1797-1828) シューベルト
Missa in G, D167 ミサ曲ト長調
  Kyrie   キリエ 14-14.mp3 3:31
  Gloria   グロリア 14-15.mp3 3:01
  Credo   クレド 14-16.mp3 4:31
  Sanctus   サンクトゥス 14-17.mp3 1:24
  Benedictus   ベネディクトゥス 14-18.mp3 4:17
  Agnus Dei   アニュス・デイ 14-19.mp3 4:54
Encore: J. S. Bach, Choral: Jesus bleibet meine Freude, BWV147-10 14-20.mp3 3:16
Encore: F. Schubert, Schlußgesang (Deutsche Messe, D872) 14-21.mp3 1:42

<プログラムノート> 鈴木優

例えば、日頃演奏会やCDでクラシック音楽を好んで聴かれる方や、自ら楽器を手にしたり、合唱や声楽を楽しまれる方であれば、ヨーロッパの地図を見ながら、過去の大音楽家が活躍した所や、現在有名な歌劇場やコンサート・ホールがある都市に思いをめぐらしたり、また実際にそういった都市を訪れる旅行を計画したりすることは、とても楽しいことでしょう。

あなたの「夢の音楽旅行」の目的地はどこでしょうか。

モーツァルト・ファンならザルツブルグ、ブルックナー無しには生きられない人はザンクト・フローリアン、イタリア・オペラ党ならミラノやローマなどなど切りがありませんね。

しかし大多数の人々にとって、ヨーロッパ第1の音楽都市はなんといってもウィーンでしょう。

本日のつくば古典音楽合唱団第14回定期演奏会では、今年没後250年にあたるJ.S.バッハがその後半生を過ごしたライプツィヒに関わりのあるモテットと、ウィーン生え抜きの音楽家シューベルトのミサ曲を演奏いたします。

*  *  *

「この言葉は確かに真実である」の作曲者ハインリッヒ・シュッツはバッハが生まれるちょうど100年前の1585年10月14日にライプツィヒの南方40kmにあるケストリッツという村に生まれました。

モーリッツ辺境伯に見出され、1598年にカッセルの宮廷礼拝堂歌手となり、1609年にサン・マルコ大聖堂のジョヴァンニ・ガブリエリに師事するためにヴェネツィアへ留学します。

帰国後、1613年にカッセルで宮廷オルガニストを勤めた後、1617年にドレスデンの宮廷楽長となり、以後1672年11月6日に亡くなるまで、この地で生涯を送りました。

本日演奏いたしますモテットは1648年にドレスデンで出版され、ライプツィヒの市参事会に献呈された「宗教合唱曲集(Geistliche Chormusik)」に収録されています。

この曲集には29曲のモテットが収められていますが、その対位法書法やドイツ語の朗唱法のすばらしさ、そして極めて深い精神性を感じさせることなど、水準の高い作品ぞろいのシュッツの音楽の中でも、最高の傑作が集められた曲集であると思います。

この曲集の献辞にはトマス教会合唱団、そして惜しまれて世を去った楽長ヨハン・ヘルマン・シャインへの讃辞が印されています。

「この言葉は確かに真実である」は6声部の合唱のために書かれ、新約聖書テモテへの第1の手紙、第1章15―17をテキストとする顕現祭のためのモテットです。

シュッツの時代のドイツを語る上で、忘れることができないのは「30年戦争」です。

1618年から1648年にわたるこの戦争でドイツの人口の3分の1が亡くなったといわれています。

ライプツィヒも荒廃し、その人口は1万4000人ほどに減少しました。しかしその後の復興はめざましく、1753年にその人口は3万2384人に達します。

本来ライプツィヒは交易の要所であり、国際的な商業都市でした。特に年3回開催される見本市は非常に有名でした。今日でもなお出版物の見本市は良く知られています。

そのようなライプツィヒにJ.S.バッハは1723年にトマス・カントルとしてやって来ます。

*  *  *

ヨハン・セバスティアン・バッハは1685年3月21日にアイゼナッハで音楽家の家族に生まれます。18歳の年1703年にアルンシュタット、1707年にはミュールハウゼンのオルガニストとなります。この間1705年10月より16週間にわたり北ドイツのリューベックに滞在します。

当地にてブクステフーデのオルガン演奏や「夕べの音楽」と呼ばれた教会音楽会を聴くのが目的でした。

その後1708~17年はワイマールの宮廷オルガニストを勤めます。この時代にも多くの魅力的なカンタータを作曲しています。

続いて1717~23年はライプツィヒ北西50kmにある城下町ケーテンの宮廷楽長となります。

ケーテンの領主レオポルト候は、音楽を好み、バッハも幸福な日々を送ったと言われています。この時期には「ブランデンブルグ協奏曲」を始めとし、多くの器楽曲の名品が作曲されました。しかしこの幸福な日々もレオポルト候の2度目の候妃が音楽嫌いであったために、バッハは外に就職先を求めることとなり、終止符が打たれます。

そして1723年にトマス教会カントル兼ライプツィヒ市音楽監督となります。この仕事は市内4つの主要教会に教会音楽を提供し、しかも教会付属の寄宿制学校の生徒を指導するという激務でした。

バッハはこの地位を全うし、1750年7月28日に亡くなりました。

モテット第1番「主に向かって新しい歌をうたえ」BWV225は1726年から翌年にかけて作曲されました。バッハにとって各主日の礼拝のための教会カンタータの作曲は日常の職務上の義務でした。それに対して、今日世俗カンタータと分類されるものは、主に何らかの祝賀行事、そしてモテットは主に葬儀や追悼式といった特別の機会に依頼を受けての作曲でした。バッハにとっては臨時収入を得る良い機会だったようです。

今日バッハのモテットは6曲が知られています。この第1番がどのような機会のために作曲されたかは不明ですが、その明るく歓喜に満ちた曲想からは、葬儀のための音楽とは考えられません。現在では、おそらく新年か誕生祝賀会のための曲であろうという意見が有力です。

この曲は2つの四声部の合唱による二重合唱の編成で作曲され、極めて高度な声楽書法が用いられた、演奏もとても難しいものです。

第1、3、4部では、あふれんばかりの歓喜が歌われ、第2部では対照的にバッハの感情が直接に感じられるような内省的な音楽となっています。

1789年4月にライプツィヒを訪れたモーツァルトが、このモテットを聴き、その楽譜を見て「自分はこのような音楽を求めているのだ。」と感嘆の声を発した、というエピソードが伝えられています。

*  *  *

ハプスブルク家の帝国の首都ウィーンは17世紀末にはすでに音楽の中心地と目されていました。

そして18世紀後半のいわゆる「ウィーン古典派」から19世紀ロマン派の時代を経て今日に至るまで、ウィーンはヨーロッパの指導的な音楽都市としての栄誉を担うこととなります。

今日と同じように、才能のある人間が各地からこの宮廷を中心とした大都市に、職を求めて集まり、ウィーンの音楽文化が開花しました。ですからウィーンを代表する大音楽家でウィーン出身者はむしろ少数派です。

例えばモーツァルトはザルツブルクから来ました。ベートーヴェンはライン川沿いのボン、ブラームスは北ドイツのハンブルグ、ブルックナーはリンツ近郊のアンスフェルデン、マーラーはボヘミアのカーリシュトに生まれています。

ウィーンで生まれた有名な作曲家は、むしろ新ウィーン楽派の3人、シェーンベルク、ベルク、ウェーベルン、そして何といってもフランツ・シューベルトです。

フランツ・シューベルトは1797年1月31日に生まれます。生家はウィーン市ヌスドルファー通り54番地にあり、現在はシューベルト博物館になっており、路面電車で簡単に訪れることができます。

1808年ウィーン宮廷礼拝堂の少年聖歌隊員(今日のウィーン少年合唱団)となり、5年間コンヴィクトと呼ばれる寄宿制神学校で生活します。この間オルガンやピアノのレッスン、そして宮廷楽長サリエリから対位法や通奏低音の指導を受けます。

1813年変声期を迎えコンヴィクトを退学し、生活のため父の学校の助教師を3年間勤めます。シューベルトがその生涯で定職についたのはこの時期だけで、その後は作曲に専念するボヘミアン的な生活に入ります。

17歳の年1814年には、ゲーテの詩による「糸を紡ぐグレートヒェン」が作曲されます。この歌曲によって「ドイツ・リート」というジャンルが生み出されたと評価される名曲です。

翌年には更に「魔王」「野ばら」といった傑作が作られます。

その後シューベルトは31年間という、モーツァルトよりも短い人生の間に、約630曲の歌曲、8曲の交響曲をはじめとして、ピアノ独奏・連弾曲、室内楽曲、教会音楽、決して成功しなかったオペラなど、広い分野にわたって約1、000曲の音楽を残しました。

しかしそれらの曲のうち、シューベルトの生前に出版されたのは約15%であり、大多数の、特に大曲は没後ようやく出版されました。

1828年11月19日にシューベルトは亡くなります。死因は最終的には腸チフスでしたが、かねてより煩っていた慢性的梅毒がシューベルトの肉体から抵抗力を奪っていたことは間違いありません。

シューベルトの天上的でありながら身近で、しかも考えるだけで胸が熱くなるような「なつかしさ」を感じさせる、あまりに私たちにとって美しすぎる音楽に説明を加えることは、ここではあまり意味がないでしょう。

かわりに過去のシューベルティアンやシューベルト自身の言葉をいくつか紹介しておきます。

シャガールはメトロポリタン・オペラで「魔笛」の舞台美術を担当した際に「モーツァルトは天才です、しかしシューベルトは奇蹟です。」と語りました。

またシューマンはハ長調交響曲(俗にザ・グレイトと呼ばれる)を「この交響曲にはただの美しい歌だとか、今までに音楽が何百回となく表してきた、ありふれた喜怒哀楽を超えるものが秘められていて、聴く人をある国にさそってゆく。今までに行ったことがあるとはどうしても思い出せないような国へ――。」と論評しています。

シューベルトの19歳の日記でモーツァルトを聴いた印象を読むことができます。「こうして心に押された美しい刻印は、われわれにいつまでも恵みをおよぼすのだ。こうして、この世の闇に明るく澄みきった美しい『彼方』が開かれる。僕たちはそこに希望を託すのだ。」

この言葉はそのままシューベルトの音楽そのものをも言い表わしています。

またシューベルトは、しばしば友人たちに「いったい本当に陽気な音楽というものがあるだろうか。僕は一つも知らない。」と語っています。これはシューベルトを理解する上でとても重要なキー・ワードだと思います。

1830年に友人たちが建てた墓碑には「音芸術は豊かな財宝を、否、はるかに美しい希望の数々を、ここに埋めた。」という碑文が刻まれました。

*  *  *

「ドイツ・ミサ曲D872」は1826年、29歳の年に作曲されました。これは「冬の旅」の作曲の前年です。このドイツ語によるテキストの作者ヨハン・フィリップ・ノイマンは本業は工業研究所物理学教授でした。ノイマンは教会音楽平明化運動の信奉者であり、この運動の一環としてシューベルトにドイツ語によるミサ曲の作曲を依頼したのでした。

全曲はカトリックのミサに対応する8曲と付録の「主の祈り」から成ります。本日は第4曲「奉献唱」、第6曲「聖変化の後に」、「主の祈り」を省略した6曲を演奏いたします。

各曲は有節リートに器楽の後奏が付くという形式になっています。旋律は民謡の調べを持つ親しみ易いものです。

尚この曲は本来合唱と管楽器の合奏のために作曲されましたが、本日は器楽のパートを弦楽合奏で演奏いたします。

シューベルトは生涯に6曲のラテン語によるミサ曲を作曲します。本日のプログラムの最後に置かれた「ミサ曲ト長調D167」は2番目のミサ曲で1815年、シューベルト18歳の作品です。

この年シューベルトは、「魔王」「野ばら」を含め、歌曲だけで145曲を作曲したというように、非常に創作意欲が高まっており、このミサ曲も3月2日~7日のわずか6日間で書き上げられました。

このミサ曲は四部合唱と弦楽合奏、オルガン、3人のソリストという編成であり、カトリック・ミサ曲の定型であるキリエ、グロリア、クレド、サンクトゥス、ベネディクトゥス、アニュス・デイの6章から成っています。

初演はシューベルトが洗礼を受けたリヒテンタール教区教会で行われ好評を得たと伝えられています。

このミサ曲は今日でも、オーストリアや南ドイツのあらゆる規模の聖歌隊の、重要な実用的レパートリーとなっており、オーケストラの使用が可能な大きな主日のミサで良く演奏されます。


<オルガン曲> 渡部聡

トッカータ
北ドイツ、リューネブルク市の市立図書館に所蔵されているKN208(通称リューネブルク・オルガンタブラチュア)という写本は、1650年前後に作成されたもので、シャイデマンとその周辺の作曲家の作品(シャイデマンの師、スウェーリンクのスタイルによる前奏曲、トッカータ、コラール編曲等)が収められています。この写本は、当時一般的であったドイツ式オルガンタブラチュア(五線を使わずアルファベットで音を表す記譜法)で書かれています。この中から、第3曲目のトッカータを演奏します。

アンダンテ
バッハは自作の曲を別の演奏形態のために編曲するということをしばしば行いました。この鍵盤独奏のためのソナタは、有名な無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第2番イ短調BWV1003の編曲です。本日はその中から第3楽章のアンダンテを演奏します。


【歌詞対訳】

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