第16回定期演奏会《モーツァルト未完の”大ミサ曲”》2002.11.23

<演奏者>
指揮 鈴木優 / ソプラノⅠ 山内房子/ ソプラノⅡ 高橋 節子 / テノール 大島博/ バス 山崎岩男/ オルガン 渡部聡 / コンサート・ミストレス 神戸愉樹美 / オーケストラ つくば古典音楽合奏団 (第1ヴァイオリン 神戸愉樹美,大西律子,小池吾郎 ; 第2ヴァイオリン 高橋真二,宮崎容子,なかやまはるみ ; ヴィオラ 山廣みほ,上田美佐子 ; チェロ 土田寿彦,町田正行 ; コントラバス 渡戸由布子 ; フルート 大平記子 ; オーボエ 大見佳菜子,田渕哲也 ; ファゴット 坂田在世,高林美樹 ; ホルン 堂山敦,村本岳史 ; トランペット 長田吉充,大矢智子 ; ティンパニー 森本美穂 ; オルガン 渡部聡)/ 合唱 つくば古典音楽合唱団


<プログラムと演奏録音>

Anton Bruckner (1824-1896) ブルックナー
Alla breve d-moll, WAB126 アラ・ブレーヴェ ニ短調 16-1-01.mp3 3:10
Anton Bruckner (1824-1896) ブルックナー
Locus iste 「この場所は」 16-1-02.mp3 2:31
Ave Maria 「アヴェ・マリア」 16-1-03.mp3 3:04
Simon Sechter (1788-1867) ゼヒター
Präludium in g, Op.26 前奏曲 ト短調 Op.26 16-1-04.mp3 2:49
Trauerfuge in g, Op.55 葬送フーガ ト短調 Op.55 16-1-05.mp3 4:52
Anton Bruckner (1824-1896) ブルックナー
Os justi 「正しき人の口は」 16-1-06.mp3 4:14
Virga Jesse 「エッサイの若枝より」 16-1-07.mp3 3:26
-休憩-
Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791) モーツァルト
Missa in c, K427 ミサ曲ハ短調 K427
Kyrie キリエ 16-2-01.mp3 6:37
Gloria グロリア
  Gloria in excelsis 16-2-02.mp3 2:21
  Laudamus te 16-2-03.mp3 4:57
  Gratias 16-2-04.mp3 1:29
  Domine 16-2-05.mp3 2:53
  Qui tollis 16-2-06.mp3 5:52
  Quoniam 16-2-07.mp3 4:15
  Jesu Christe – Cum Sancto Spiritu 16-2-08.mp3 4:49
Credo クレド
  Credo in unum Deum 16-2-09.mp3 3:55
  Et incarnatus est 16-2-10.mp3 7:33
Sanctus サンクトゥス 16-2-11.mp3 3:51
Benedictus ベネディクトゥス 16-2-12.mp3 5:41
Encore: Mozart, Ave verum corpus, K. 618 16-2-13.mp3 3:03

<プログラムノート> 鈴木優

本日のつくば古典音楽合唱団第16回定期演奏会のプログラムでは、オーストリアに生まれた二人の大作曲家による、18世紀と19世紀の最高水準の合唱曲をお聴きいただきます。

前半はブルックナーのモテットを4曲、ア・カペラで演奏します。当合唱団では、1996年、ブルックナー没後100年の演奏会でも、そのモテットを演奏しましたが、繰り返し歌っても飽きることのない私たちにとって重要なレパートリーです。

後半はモーツァルトの大作「ハ短調ミサ曲」K427です。このミサ曲はモーツァルトの全創作の中でも最高の価値を持つもののひとつです。本日は22名から成るオーケストラと4名の独唱者と共に演奏します。

これらの音楽を演奏することは、とてもむずかしいことです。しかし練習中でも、うまくいった一瞬には「なんと美しい音楽なのだろう。」と、ほとほと感動させられてしまいます。こういった音楽を体験すると、私たちが生きているこの世界は、私たちが知りえない世界とつながっていて、私たち自身もそこから送られてくる力によって生かされているのだろうかなぁ、などと神妙なことを時に思ってしまいます。本日の私たちの演奏が、二人の巨匠の音楽の美しさに、少しでも適うものであればと願ってやみません。

*  *  *

アントン・ブルックナーは1824年9月4日、オーストリア、リンツ南方のアンスフェルデンという、当時人口わずか350人の小さな村に生まれます。父は村の小学校の教師であり、また教会の聖歌隊指揮者やオルガニストでもありました。ブルックナーは父の没後、13歳で聖フローリアン修道院の少年聖歌隊員となり、付属学校に入学し、そこでオルガンをはじめとして音楽教育を受け、多くの音楽活動に参加しました。その後ブルックナーは父に倣って教員を志望し1840年に資格を取得し、いくつかの学校に赴任した後、1845年母校である聖フローリアンの助教師となり、さらに1850年にはオルガニストにも任命され1856年までこの地にとどまります。

そして1856年には州都であるリンツの大聖堂オルガニストに就任します。ブルックナーが自分の人生の道として、音楽家としての生活を考えるようになったのは、この32歳の年からであったようです。またリンツでは、男声合唱団”フロージン”で合唱指揮者としての手腕を発揮します。ブルックナーはこの合唱団の力をドイツやオーストリアでの合唱祭でも高い評価を得るようなものに向上させました。練習後の団員との飲食や歓談も大いに楽しんだようでした。

この時期ブルックナーは同時にウィーン音楽院教授のジーモン・ゼヒターの下で1855年より6年にわたって和声法や対位法などの作曲技法を徹底的に学びました。ゼヒターはこの修行期間中はブルックナーに作曲を禁じていたため、この間の作品はわずかです。そしてゼヒターの下での修行を終えた1861年以降ブルックナーは本格的に作曲家としての道を歩みます。そして1868年にウィーン音楽院教授、及び宮廷礼拝堂オルガニストに任命され、以降の人生をウィーンで過ごすこととなります。

交響曲第九番を作曲中のブルックナーは、1896年10月11日に72歳で亡くなります。その遺体の入った石棺は、遺言により聖フローリアン修道院教会の大オルガンの下の地下墓所に安置されました。これは今でも修道院内の見学ツアーで見ることができます。

“Locus iste” は1869年8月11日の日付が付けられており、同年9月の新リンツ大聖堂の献堂式で歌われたと思われます。ブルックナーの音楽にはゲネラル・パウゼと呼ばれる音のない、一小節にわたる休符がよく出てきます。この曲の終わり近くのゲネラル・パウゼの空白の数秒に聖フローリアンの美しい自然の中の鳥のさえずりや、教会の鐘の音などを想像していただければと思います。

“Ave Maria” は1861年5月12日、リンツの合唱団”フロージン”によって初演されました。テキストはルカによる福音書中の”天使祝詞”です。この有名なテキストには数多くの作曲がなされています。ブルックナーは7声のモテットとして作曲しました。

“Os justi” は交響曲第5番が完成された翌年の1879年、聖フローリアンの合唱指揮者、イグナーツ・トラウミーラーの要望により、8月28日の聖アウグスティヌスの祝日のために作曲されました。この合唱指揮者は、パレストリーナを理想とし、教会音楽を浄化しようとする”チェチーリア運動”の主唱者でした。ブルックナーもそのことを充分考慮し、このモテットの作曲では教会旋法を用い、シャープ、フラットを使わないなどといった制約を自らに課しました。

“Virga Jesse” は1885年に作曲されました。すでに前年に交響曲第7番が初演されており、後期の最円熟期の内容を持つ、極めて完成度の高い曲となっています。この曲は各声部の音域も広く、多くの効果的な転調があり、ア・カペラでの演奏のとても難しいものです。テキストは旧約聖書民数記第17章によっています。

ブルックナーの音楽には、宇宙や大自然の様相から大衆的な舞曲までが渾然一体となっております。そしてこれら無伴奏の教会音楽には、その中でも特に崇高な部分が純粋に結晶化していると感じられます。私たちは今後もこの大いに尊敬されるべき、また愛されるべき音楽を歌い継いで行きたいと思います。

*  *  *

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、1756年1月27日にザルツブルクに生まれます。今日では夏の音楽祭で有名なザルツブルクは当時はローマ教皇領であり、教皇から任命された大司教が治める町でした。

アマデウスの父レオポルドは大司教の宮廷楽団の副楽長を務めていました。レオポルドは一流の音楽家ではなかったかもしれませんが、その教会音楽作品やヴァイオリンの教則本は今日にも伝わっています。レオポルドはアマデウスに音楽教育をほどこし、アマデウスが6歳の時からしばしば一緒に旅行をしました。行先は南はイタリアのナポリ、北はドーバー海峡を渡ってロンドンと、とても広い範囲に及びます。これらの旅行を通じて、レオポルドはアマデウスの才能を世に紹介すると共に、アマデウスに当時の各地の最高の音楽に接する機会を作りました。その間に神童ともてはやされマリア・テレジアの前で演奏するなど、多くのエピソードを残しています。またイタリアではすでに14歳の時にオペラの作曲を依頼され、ミラノで上演しています。

アマデウスはザルツブルクにおいて1772年にコンサートマスターに、そして1779年には宮廷オルガニストに採用されます。しかしその頃外国へ求職活動としての旅行を行った成人したアマデウスは、国外で望むような職を得ることはできませんでした。1781年にアマデウスは大司教と決定的な不和となり、活動の場をウィーンに移すことになります。ウィーンでのアマデウスは、当初「後宮よりの逃走」などで大成功を収めますが、次第に人気は下火となり、晩年には多くの借金を抱えることとなります。その理由としては、モーツァルトの音楽が当時の聴衆にとってあまりにも前衛的なものになってしまったからである、とか、「フィガロの結婚」の体制批判的内容が貴族社会にとってあまりにスキャンダラスであったからである、といったような見解もありますが、真相はいまだ不明です。

そのような状況の中で1791年12月5日、レクイエムを作曲中にアマデウスは35歳で病死してしまいます。遺体は聖シュテファン寺院の最も安い葬儀会社に引き渡され、共同の墓穴に埋められた時には、付きそうものもおらず、埋葬を見届けたのは墓掘り人夫だけでした。そのため今でもアマデウスの埋葬された正確な場所は不明なのです。

*  *  *

モーツァルトの作品で今日に伝えられているものの数は約700曲です。そのうち教会音楽の占める割合は約1割です。ミサ曲も、レクイエムを含めますと18曲とかなりの数を作曲しています。そのうち本日演奏いたします「ハ短調ミサ曲」K.427は、その作曲の動機が職務や注文によるものでないという点でもユニークなものです。

モーツァルトは1782年8月4日にコンスタンツェ・ウェーバーと結婚します。父レオ歩ルドは激怒して反対したようです。モーツァルトは婚約した時に、結婚することができたら、1曲のミサ曲を作曲して奉納するという誓いを立てました。1783年1月4日付の父宛ての手紙には「私の誓いの本当の証拠として、ミサ曲の楽譜が半分ほどできています。そして完成の希望に燃えているところです。」と書かれていました。そしてモーツァルトとコンスタンツェは1783年7月ザルツブルクに行き父と姉ナンネルに会います。そして10月25日に聖ペテロ教会で奉納ミサとして初演されました。ソプラノ独唱は美しい声を持っていたコンスタンツェでした。

しかしこのミサ曲は、一般的なミサ曲の全楽章が全て完成されたものではありませんでした。作曲されたのは、キリエとグローリア、クレドの前半、サンクトゥスとベネディクトゥスのみです。そのうちクレドにはオーケストレーションの部分に、そしてサンクトゥスにはオザンナの二重合唱部分に欠落があります。そしてクレドの後半とアニュス・デイは全く残されていません。

音楽作品が未完に終わる場合には、いくつかの事情が考えられます。例えば作曲者が亡くなるということ。モーツァルトの「レクイエム」やブルックナーの交響曲第9番、プッチーニの「トゥーランドット」やベルクの「ルル」などですね。それから音楽自体がすでに充足してしまって形式的には未完成に見える場合。シューベルトのいわゆる「未完成交響曲」などはこれに当たると思います。ハ短調のミサ曲が未完に終わった事情はいずれとも違うものでしょう。おそらく最大の理由は、この曲が注文によったものではないということでしょう。注文によるものであるとすれば当然期日までに完成させたものを引き渡す義務が生じます。レクイエムの場合、モーツァルトの死後コンスタンツェが弟子に依頼してでも、何とかして完成させようとしたのは、すでに作曲料を受け取っていたという現実的な理由によるものです。

また注文されたものでないということは、作曲にあたって一切の制約がないということでもあります。そのためモーツァルトは自分の能力をフルに働かせて、豊かな楽想を惜しみなく使っています。そこがこの曲の大きな魅力なのですが、同時に完成した部分だけでもすでに50分以上演奏に必要な分量となり、実用のミサ曲としてすでに長すぎるものであると思われます。もしクレドの後半とアニュス・デイが加わったとしたら、少なくとも80分を越える大曲になったでしょう。今日ドイツなどの大きな教会の大きな祝日のミサでも全体で90分くらいだと思います。ですから音楽だけで80分のミサ曲というのは実用上大きく規格からはずれているわけです。この辺がこの曲が未完成に終わった原因ではないでしょうか。

以前には、作曲されなかった部分をモーツァルトの他のミサ曲から補って演奏することも試みられましたが、今日では、作曲された部分だけを演奏するのが普通です。それでもオーケストレーションの不備な箇所や二重合唱の部分などの補筆は後の人によってなされたものを使います。本日の私たちの演奏は18世紀の音楽を専門とする音楽学者ロビンス・ランドンによって1956年に補筆、校訂のうえ出版された楽譜を使用いたします。

なお、本来モーツァルトによるオーケストラの編成には3本のトロンボーンが指定されています。当時の教会音楽では合唱をトロンボーンによって重ねるのは慣習的なことでした。しかし本日の演奏では、合唱及びオーケストラの他の楽器とのバランスを考慮してトロンボーンは除外しました。しかしこの処置によってモーツァルトの書いた音で損なわれるものはひとつとして無いことをここに表明いたします。
各曲の編成(声楽パート)は以下の通りです。

Kyrie 四声部合唱、中間部にソプラノ I 独唱
Gloria 四声部合唱
Laudamus te ソプラノ II 独唱
Gratias 五声部合唱
Domine ソプラノ I、II による二重唱
Quitollis 二つの四声部合唱による二重合唱
Quoniam ソプラノ I、II、テノールによる三重唱
Jesu Christe – Cum sancto spiritu 四声部合唱
Credo 五声部合唱
Et incarnatus est ソプラノ I 独唱 フルート、オーボエ、ファゴットによるオブリガート
Sanctus 二つの四声部合唱による二重合唱
Benedictus ソプラノ I、II、テノール、バスによる四重唱、後半オザンナの部分は二つの四声部合唱による二重合唱

それでは様々な様式が一体となった、モーツァルトの最高傑作をお楽しみ下さい。約1時間の演奏です。


<オルガン曲> 渡部聡

ブルックナーはオルガニストとして活躍していた時期も長く、後期の大交響曲の中にもオルガン的な発想で書かれている部分が多いと言われますが、その割にはオルガンのための作品が非常に少なく(ブルックナーの真作と確認されているものは5曲)、ほとんどが若い頃の習作的な作品です。このニ短調の作品は1847年頃の作で、和音の連続によるごく短い前奏に、シンコペーションを伴った主題によるバロック的なフーガが続きます。

ゼヒターはヴィーンのコンセルヴァトリウムで和声法と対位法の教師を務める傍ら、多くの作品を残しています。ブルックナーも長期にわたりゼヒターに師事し、のちに彼の後任としてここで教鞭をとることになります。ト短調の前奏曲は、半音進行を多用した小品。「葬送フーガ」は1833年にヴィーン音楽界の重鎮であったシュタットラーが亡くなった際に作曲されたもので、「Abb_ Stadler」の最初の8文字をドイツ音名に置き換えて主題としています(ただし “t” はd )。半音上昇と減5度下降を含む印象的な主題となっています。


【歌詞対訳】

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