第21回定期演奏会《スペインとドイツの魂の歌》2007.11.23

<演奏者>
指揮 鈴木優 / メゾソプラノ 佐久間和子 / テノール 及川豊 / バリトン 小橋琢水 / リコーダー 濱田芳通,細岡ゆき / ヴィオラ・ダ・ガンバ 神戸愉樹美,小澤絵里子 / コントラバス 佐藤洋嗣 / オルガン 渡部聡 / 合唱 つくば古典音楽合唱団


<プログラムと演奏録音>

Antonio de Cabezón (1510-1566) アントニオ・デ・カベソン
Tiento del Quinto Tono 第5旋法のティエント(オルガン独奏) 21-1-01.mp3 4:29
Tomás Luis de Victoria (1548-1611) トマス・ルイス・デ・ビクトリア
“Lamentationes Ieremiae Prophetae Feria V in Coena Domini” 「聖木曜日のエレミヤ哀歌」
Lectio Ⅰ Incipit レクツィオ1
 lamentatio Ieremiae Prophetae 預言者エレミヤの哀歌の始め 21-1-02.mp3 5:01
Francisco Correa de Arauxo (c1576-1654) フランシスコ・コレア・デ・アラウホ
Tres Glosas sobre el Canto Llano 聖母マリアの無原罪の御宿り」
de La Immaculada Concepción による3つのグローサ(オルガン独奏) 21-1-03.mp3 3:08
Lectio II Vau. レクツィオ2
 Et egressus est a filia Sion omnis decor 全ての栄華は娘シオンを去り 21-1-04.mp3 3:58
Tomás de Santa María (?-1570) トマス・デ・サンタ・マリア
Fantasia ファンタジア(オルガン独奏) 21-1-05.mp3 3:20
Lectio III Iod. レクツィオ3
 Manum suam misit hostis 敵は手を伸ばし 21-1-06.mp3 4:52
Juan Sebastián (?-? 17C) フアン・セバスティアン
Tiento de Secondo Tono 第2旋法のティエント(オルガン独奏) 21-1-07.mp3 3:43
Tomás Luis de Victoria (1548-1611) トマス・ルイス・デ・ビクトリア
Caligaverunt oculi mei 「私の目は曇り」 21-1-08.mp3 2:51
- 休憩 -
Johann Schenck (c1660-c1715) ヨハン・シェンク
Vivace von dem Sonata II in a-Moll ヴィオラ・ダ・ガンバ ソナタ2番イ短調
“L’echo du Danube” 「ドナウの響き」より ヴィヴァーチェ 21-2-01.mp3 6:49
Johann Sebastian Bach (1685-1750) ヨハン・セバスティアン・バッハ
Motette Nr. 4 (BWV228) モテット第4番
“Fürchte dich nicht, ich bin bei dir” 「恐るるなかれ、われ汝と共にあり」 21-2-02.mp3 8:33
Johann Sebastian Bach (1685-1750) ヨハン・セバスティアン・バッハ
Kantate Nr. 106 (BWV106) カンタータ第106番
“Gottes Zeit ist die allerbeste Zeit” 「神の時は最上の時なり」
 1. Sonatina  1. ソナティーナ 21-2-03.mp3 2:18
 2a. Gottes Zeit ist die allerbeste Zeit  2a. 神の時は最上の時なり 21-2-04.mp3 1:57
 2b. Ach, Herr, lehre uns bedenken  2b. ああ主よ、教えたまえ 21-2-05.mp3 2:18
 2c. Bestelle dein Haus  2c. 汝の家を整えよ 21-2-06.mp3 1:12
 2d. Es ist der alte Bund  2d. これは古くからの契約なり 21-2-07.mp3 3:14
 3a. In deine Hände befehl ich meinen Geist  3a. 私はわが霊を汝の手に委ねる 21-2-08.mp3 2:42
 3b. Heute wirst du mit mir in Paradies sein  3b. 今日汝は私と共に楽園にいるだろう
 /Mit Fried und Freud fahr ich dahin  /平安と歓喜のうちに私は行かん 21-2-09.mp3 3:36
 4. Glorie, Lob, Ehr und Herrlichkeit  4. 栄光、賞賛、誉れと栄華が 21-2-10.mp3 3:05
Encore: Glorie, Lob, Ehr und Herrlichkeit 21-2-11.mp3 3:03

<プログラムノート> 鈴木優

本日は、つくば古典音楽合唱団第21回演奏会にご来場いただき、まことにありがとうございます。当合唱団は皆様からのご支援及び励ましを受け、昨年12月に第20回という節目の演奏会を行うことができました。その演奏会におきまして、多くのお客様の前でJ.S.バッハの「ミサ曲ロ短調」を無事演奏することができましたことは、私たちにとって大きな喜びでした。

今年からまた、私たちは新たな一歩を歩き始めますが、それにあたって今回は当合唱団の活動の原点に立ち返る選曲をいたしました。

*  *  *

「スペインとドイツの魂の歌」と題しました本日の演奏会では、二人の偉大な音楽家の合唱作品をお楽しみいただきます。前半のビクトリアの作品は、すでに私たちの第1回演奏会で二曲のモテットを取り上げています。今回は代表作の一つである「エレミヤ哀歌」をア・カペラで演奏いたします。

後半は、私たちがやはり第1回演奏会以来持続的に取り組んでいるJ.S.バッハの作品を取り上げます。カンタータ第106番は第3回演奏会以来の再演となります。また、六曲のモテットが今日J.Sバッハの真作として知られていますが、私たちは今回でようやくその六曲をすべて演奏したことになります。

*  *  *

トマス・ルイス・デ・ビクトリアは1548年に、現在のスペインの首都マドリッドの西北西120kmに位置するアビラの町に生まれます。この町の名は「アビラの聖女テレサ」と呼ばれたテレサ・デ・ヘススの出身地としても知られています。

ビクトリアは、まずアビラの大聖堂で、当時音楽の才能を認められた男の子が皆そうであったように、少年聖歌隊員として最初の音楽教育を受けました。また、同時にイエズス会の学校で古典の教育も受けました。

変声期を迎えたビクトリアはローマへ留学し、イエズス会の教育機関の一つコレジウム・ジェルマニクムで、音楽家になるための勉強と同時に聖職者になるための勉強をします。入学は1563年とも1565年とも言われています。ここでビクトリアがパレストリーナの指導を受けたことは、ほぼ確実な事とされています。

ローマでビクトリアは音楽家として成長して行きます。20歳の年である1569年にはサンタ・マリア・ディ・モンセラート教会の歌手兼オルガニストとなり、1571年には母校であるコレジウム・ジェルマニクムの教師に任命され、さらに1573年にはその楽長に昇格しています。また1572年には最初の作品集である「モテット集」が出版されます。

ビクトリアはその間も聖職者になるための準備を並行して行っており、1575年8月25日に助祭に叙階され、その3日後には司祭になります。聖職者となったビクトリアはコレジウム・ジェルマニクムの楽長の地位を辞任しますが、サン・ジロラモ・デッラ・カリタ教会の司祭を務めていた1585年までの10年間がビクトリアの創作の最盛期であり、この間に7巻に及ぶ曲集が出版されています。

ローマで聖職者と音楽家の両面で充実した活動をおこなっていたビクトリアでしたが、1583年に出版された「ミサ曲集第2巻」のフェリペⅡ世への献呈の辞で「自分は作曲することに疲れを感じており、できれば故国に戻り聖職者として神を瞑想する日々を送りたい」と述べています。

この願いは国王フェリペⅡ世によって、すぐに叶えられることになりました。国王は妹のマリア付きの司祭にビクトリアを任命します。マリアは皇帝マクシミリアンⅡ世の皇后でしたが、夫の死後マドリッドに戻りラス・デスカルサス・レアレス修道院で暮らしていました。この修道院でビクトリアは皇太后であるマリア付きの司祭として、修道院の楽長を務めることになりました。

ビクトリアは1578年から、皇太后マリアが亡くなる1603年までその職を務め、マリアの死後はこの修道院でオルガニストとして過ごしました。皇太后マリアが亡くなった時、ビクトリアはレクイエムを作曲し1605年に出版されました。これがビクトリアの最後に出版された曲集となりました。

ビクトリアは63歳の年である1611年8月27日に世を去り、人生の後半を過ごしたこの修道院の中に埋葬されました。

*  *  *

本日演奏いたします曲は1585年にローマで出版された「聖週間聖務曲集」に収められています。当時、曲集を出版する際は一般に貴族や国王といった庇護者に「献呈」するという形を取りました。例えば前述のとおりビクトリアの1583年の「ミサ曲集第2巻」はスペイン国王フェリペⅡ世に献呈されています。しかし、この「聖週間聖務曲集」は特定の個人ではなく、「聖三位一体」に献呈されています。聖三位一体に献呈するということは、すなわち神にこの曲集を捧げたということになります。このようなところに、生涯を通じて教会音楽だけを作曲し続けた「作曲をする聖職者」であるビクトリアの本質をうかがうことができます。

この曲集のタイトル中の「聖週間」とは復活祭前の一週間のことであり、キリストの受難をいたみ、悔悟にくれる週のことです。「聖務」は修道院や教会での時間が決められた祈りの日課です。

この曲集の大部分の曲はキリストの受難の日を中心とする、聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日のための祈りの音楽です。「エレミヤ哀歌」はその三日間の朝課で、本来は朗読されるレクツィオと呼ばれる部分を作曲したものです。この曲のテキストは旧約聖書中の「哀歌」からとられています。ヘブライ語による原典には「エレミヤによる」という表記は無く、聖書がギリシャ語に訳された時からエレミヤを著者と考え「エレミヤ哀歌」という通称が広く流布したようです。

本日は聖木曜日のための「エレミヤ哀歌」を演奏いたしますが、曲は三部分から成り、それぞれの冒頭にヘブライ語によるアルファベットが歌われます。それに引き続き歌われるのは、バビロニアによって滅ぼされたエルサレムの惨状です。そして各部分は「エルサレムよ、汝の主である神のもとへ立ち帰れ」という戒めの言葉で締めくくられます。

「私の目は曇り」は聖金曜日のためのレスポンソリウムです。レスポンソリウムは本来レクツィオに対して応える聖歌のことです。ビクトリアは三日間の朝課のために18曲のレスポンソリウムを作曲しました。本日演奏いたしますのは、聖金曜日のための曲で、旧約聖書中の哀歌からテキストを取っています。

国を滅ぼされたエルサレムの民の苦しみと、ユダに裏切られ、民衆からも見離され、ひとり十字架上で死に向かうイエスの苦しみを二重に重ねて歌っています。

*  *  *

ヨハン・セバスティアン・バッハは1685年3月21日に中部ドイツの小都市アイゼナッハに生まれます。

バッハの一族は中部ドイツでは有名な音楽家の家系で、オルガニスト、カントール、町楽師といった職業音楽家を多く輩出しました。ヨハン・セバスティアンの父、アンブロジウスも町楽師でした。

バッハは15才の年に北ドイツのリューネブルクの聖歌隊員となり、寄宿学校で学ぶことも許されます。学業の後、1703年にアルンシュタット、1707年にはミュールハウゼンのオルガニストになります。バッハの最も初期のカンタータ「キリストは死の縄目につながれたり」や本日演奏いたします「神の時は最上の時なり」はこの時期の作品です。またこの間、1705年10月より北ドイツのリューベックに滞在し、ブクステフーデのオルガン演奏や教会音楽の演奏を聴き、大きな影響を受けました。

そして1708~17年にはヴァイマールで宮廷オルガニスト、そして楽師長を務めます。この時期にも多くのカンタータが作曲されていますが「泣き、嘆き、憂い、怯え(BWV12)」は後にロ短調ミサ曲の「主は十字架につけられ」に改作されます。

その後1717~23年は、ライプツィヒ北西50kmにある城下町ケーテンの宮廷楽長となります。ケーテンの領主レオポルト公は音楽を好み、バッハも幸福な日々を送ることができました。ケーテンの宮廷楽団は名手が揃い、水準の高いものでした。この時期のバッハは「ブランデンブルク協奏曲」を始めとし、数多くの器楽曲の名曲を作曲しました。しかし、この幸福な日々もレオポルト公の2度目の后妃が音楽嫌いであったために終止符が打たれます。

バッハは新しい就職先を探すこととなりましたが、1723年にクーナウの後任としてトマス教会カントール兼ライプツィヒ市音楽監督に就任します。バッハは市内の4つの主要教会のために作曲をし、それを練習して演奏した上に、教会付属学校の教師としての職務もこなすといった多忙な日々を送ります。毎週日曜日の礼拝、そしていくつかの祝日のためのものを加えると年間約60曲のカンタータが必要ですが、バッハは最初の1年間になんと約50曲の新作を演奏しています。

その後も晩年に至るまで創作の意欲はとどまることがありませんでした。1747年にはフリードリヒ大王の提示した主題による「音楽の捧げ物」、そして1749年にかけて「ロ短調ミサ曲」、「フーガの技法」といった自らの創作の集大成的な作品がまとめられます。

バッハは晩年白内障を患い、1750年3月に手術を受けます。この手術は失敗に終わり、以後バッハは完全に視力を失い病床に暮らすことになります。7月18日に一時的に視力が回復しますが、直後に卒中が起こり高熱が出ます。その10日後7月28日にバッハは65年の生涯を閉じました。「故人略伝」(息子エマーヌエルによるバッハの年代記)には「バッハは救い主の功徳を願いつつ平穏かつ浄福に世を去った」と記されています。

*  *  *

モテット第4番「恐るるなかれ、われ汝と共にあり」BWV228は、オリジナルの資料がすべて失われているため正確な成立年代は不明とされています。しかしながらバッハにとってモテットという曲種は、市の有力者やその家族などが亡くなった際に、葬儀や追悼礼拝のために依頼されて作曲する機会音楽でした。

そこで、このモテットは1726年2月4日にパウロ教会で行われた、市守備隊長ヴィンクラーの夫人の追悼礼拝のために作曲されたのではないかと考えられています。それはその礼拝でイザヤ書43:1-5による説教が行われたという記録が残っており、その部分がこのモテットで用いられているテキストと一致するからです。

全曲は大きく分けて二つの部分からできています。前半はイザヤ書41:10をテキストとし二重合唱による対話の形で歌います。後半はコラール・ファンタジーの形式でアルト、テノール、バスの三声がイザヤ書43:1のテキストを2つの主題を持つフーガとして歌う上に、ソプラノがゲルハルトによる十字架と慰めのコラール「なにゆえ私は悲痛な思いをしなければならないのか」の最後の二節を歌います。曲の結尾に再び冒頭の二重合唱の部分が回帰して終わります。

*  *  *

バッハは約300曲の教会カンタータを作曲したとされていますが、そのうちの約100曲が失われ、今日に真作として伝えられているバッハの教会カンタータは195曲とされています。

カンタータ第106番「神の時は最上の時なり」BWV106は、最初期のカンタータでありミュールハウゼン時代の1707年に母方の伯父の葬儀のために作曲されたと伝えられています。バッハが22歳の時の作品と言うことになりますが、後のライプツィヒのトマス・カントール時代の円熟期の作品とは、また別の味わいのある作品となっています。

第1曲は「ソナティーナ」と題されたモルト・アダージョ(とてもゆっくりと)と指示された器楽による前奏曲です。このカンタータでは2本のリコーダー、2つのヴィオラ・ダ・ガンバと通奏低音(本日はオルガンとコントラバス)という特殊な器楽編成が用いられていますが、その響きは聴く者の心に落ち着きをもたらすでしょう。

第2曲は合唱~テノールとバスの独唱によるアリオーゾ~合唱と続く大きな楽章です。この部分では歌詞に応じて拍子とテンポがつぎつぎと変化していきます。冒頭の合唱は4/4拍子~3/4拍子(アレグロ:快活に、速く)~4/4拍子(アダージョ・アッサイ:とてもゆっくりと)と変化し、続くテノールのアリオーゾは4/4拍子(レント:おそく)、バスのアリオーゾは3/8拍子(ヴィヴァーチェ:活発に、速く)、さらに最後の合唱は4/4拍子(アンダンテ:歩くような速さで)となります。後のカンタータで多く使われる、レチタチーヴォやダ・カーポ・アリアでなく、初期バロックの器楽曲のようにつぎつぎと楽想を変化させていく点にバッハの初期カンタータの特徴があります。

この部分の最後の合唱では低声の三声によるフーガが「旧き契約の定めにより、人よ、汝は死なねばならない」と威嚇するかのように歌うのに対し、ソプラノが「イエスよ、来たれ」と慰めに満ちた旋律を歌います。この2つの音楽が対立的に歌われる中に、リコーダーにより賛美歌「わがことを神に委ねたり」の旋律が演奏され、最後にソプラノの声が残ることで、キリスト教における死の意味が描き出されます。

第3曲では、救いの確信と共にアルト独唱によって詩篇31:5「わが霊を汝の御手に委ねる」のテキストが歌われ、続いてバスの独唱によって、十字架上のキリストの言葉「今日、汝はわれとともにパラダイスに在るべし」が歌われ、それに賛美歌「平安と歓喜をもってわれは往く」が唱和されます。

そして終曲である第4曲では力強く、賛美歌「栄光、賞賛、誉れと栄華が」が歌われた後、アーメンの二重フーガによって全曲が締めくくられます。

このカンタータはメンデルスゾーンに代表される19世紀のバッハ崇拝者からも高い評価を受けてきました。初期の作品でありながら、キリスト教的死生観の奥深い把握、そしてそれを音化する、すでに完成された作曲技術をこのカンタータからうかがい知ることができるでしょう。


<オルガン曲> 渡部聡

カベソンやアラウホを頂点とするスペインのオルガン音楽は、16世紀から18世紀にかけて黄金時代を迎えました。シャンソン、モテトなど声楽曲を鍵盤用に編曲した「グローサ」や、「ディフェレンシアス」と呼ばれる変奏曲などもありますが、レパートリーの大部分を占めるのは「ティエント」と呼ばれる作品群です。これは、他の国では「ファンタジア」とか、「リチェルカーレ」などと呼ばれる、対位法的な模倣様式の楽曲です。

カベソンの作品は、次々に新しい主題を模倣してゆく、古いタイプのティエントです。アラウホの作品は、1626年にアルカラで出版された “Libro de tientos y discursos…” に収められている曲で、聖母マリアを讃える聖歌に基づく変奏曲です。サンタ・マリアの作品は、1565年にヴァリャドリードで出版された “Arte de tañer fantasia” に収められているファンタジアで、これも古いタイプの対位法楽曲です。フアン・セバスティアンの作品は、単一の主題で展開される新しいタイプのティエントで、後半は3拍子のやや軽快な部分となっています。


<ヴィオラ・ダ・ガンバ合奏曲> 神戸愉樹美

ヨハン・シェンクはアムステルダム生まれのドイツの作曲家、ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者。デュッセルドルフを治めていた選帝侯ヨハン・ウィルヘルム一世にガンバ奏者としての腕を認められ1696年から近従となり、10年ほどたってこの曲集「ドナウの響き」をアムステルダムから出版しました。この第2番目のソナタは、通常のアダージョや舞曲のリズムを借りた早い楽章に、リュートの和音奏法を取り入れたり、イギリスの名手達の影響をうけたりして技巧的に書かれています。本日演奏するヴィヴァーチェはこのソナタの最終楽章で8分の6拍子です。通奏低音には、鍵盤ともう一本のバス・ガンバが必要で、3人を色々に組合せる珍しい構成の曲です。最も特徴的なのは終わり方で、イ短調の最終楽章でありながら本来のラ・ド・ミではなくミ・ソ・シの和音で終わってしまうのです。まるで疑問符が開いているよう。次はモテット、お後がよろしいようで・・・


【歌詞対訳】

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