第35回定期演奏会《バッハに流れ込む音楽史的潮流》 2022.12.11

<演奏者>
揮揮 鈴木優/ソプラノ 大川晴加/テノール 谷川佳幸/バリトン 米谷毅彦/コンサート・ミストレス 神戸愉樹美/オーケストラ つくば古典音楽合奏団(ヴァイオリン 神戸愉樹美 影山優子; ヴィオラ 小林 瑞葉 中島由布良; チェロ 武澤秀平; コントラバス 井上陽; オーボエ 尾﨑温子; ファゴット 大森俊輔; オルガン 渡部聡)/合唱 つくば古典音楽合唱団


<プログラムと演奏録音>

Pierre Attaignant (c.1494-1551/1552) ピエール・アテニャン編
14 Gaillardes 9 Pavennes, 7 Branles et 2 Basses Dances 鍵盤楽器のための舞曲集より
Gaillarde & Branle ガイヤルドとブランル 35-01.mp3 2:48
Pierre de La Rue (c.1452-1518) ピエール・ド・ラ・リュー
Ave regina coelorum 幸いあれ 天の女王 35-02.mp3 4:16
Andrea Antico (c.1480-1538) アンドレア・アンティーコ
Frottole Intabulate da Sonare Organi オルガンのためのフロットラ集より
Per dolor mi bagno el viso 私の顔は悲嘆に濡れる 35-03.mp3 4:09
Josquin Des Prez (c.1450/1455-1521) ジョスカン・デ・プレ
Tu solus qui facis mirabilia 貴方だけが驚くべき御わざをなさる方 35-04.mp3 4:30
Dietrich Buxtehude (1637-1707) ディーテリッヒ・ブクステフーデ
Kantate: Befiehl dem Engel, dass er komm, BuxWV10 カンタータ: 天使に命じてください、来るようにと 35-05.mp3 5:56
Johann Rosenmüller (c.1619-1684) ヨハン・ローゼンミュラー
Sonata da Camera cioe Sinfonie 室内ソナタ すなわち シンフォニアより
Sinfonia Terza シンフォニア 第3番 35-06.mp3 9:15
Dietrich Buxtehude (1637-1707) ディーテリッヒ・ブクステフーデ
Kantate: Walts Gott, mein Werk ich lasse, BuxWV103 カンタータ: 我は神の御心のままに 35-07.mp3 7:32
-休憩-
Dietrich Buxtehude (1637-1707) ディーテリッヒ・ブクステフーデ
Kantate: Alles, was ihr tut, mit Worten oder mit Werken, BuxWV4 カンタータ: 汝らが言葉や行いで示すすべてを
1. Sonata ソナタ 35-08.mp3 1:30
2. Concerto コンチェルト 35-09.mp3 1:49
3. Sonata ソナタ 35-10.mp3 1:25
4. Aria アリア 35-11.mp3 2:30
5. Arioso (Basso) , Choral アリオーゾ、コラール 35-12.mp3 5:07
6. Sonata ソナタ 35-13.mp3 0:53
7. Concerto コンチェルト 35-14.mp3 1:17
Johann Sebastian Bach (1685-1750) ヨハン・セバスティアン・バッハ
Kantate: Aus der Tiefen rufe ich, Herr, zu dir, BWV131 カンタータ131番: 主よ、深い淵の底からあなたに叫びます
1. Sinfonia e Coro シンフォニアと合唱 35-15.mp3 10:20
2. Aria con Corale アリア(バス・ソロ)とコラール(合唱)
3. Coro 合唱 35-16.mp3 4:03
4. Aria con Corale アリア(テノール・ソロ)とコラール 35-17.mp3 5:55
5. Coro 合唱 35-18.mp3 4:42
ごあいさつ 35-19.mp3 1:33
Encore: J. S. Bach Kantate: Aus der Tiefen rufe ich, Herr, zu dir, BWV131
5. Coro 合唱 35-20.mp3 4:45

<プログラムノート> 鈴木優

本日はお忙しい中、つくば古典音楽合唱団 第35回定期演奏会にご来場いただき、ありがとうございます。今年もコロナの影響により1月から2月にかけて7週間に亘って練習を休止しなければなりませんでした。また日頃の練習会場の使用人数制限のため、他の会場での練習が夏まで続きました。このような状況を団員の皆さんが演奏会を実現させようという熱意で乗り越え、本日演奏会の開催に漕ぎつけました。
本日、私たちの演奏と聴衆の皆さんの音楽を愛して下さる心が一つになって、ホールの中が音楽の力に充たされ、日常とは違うひと時の慰めと、明日へと向かって生きる力の一助となれればと願います。

ルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Beethoven, Ludwig van 1770-1827)はヨハン・セバスティアン・バッハ (Bach, Johann Sebastian 1685-1750)について「バッハは小川ではなく大海である(Nicht Bach, Meer sollte er heißen.)」という名言を残しています。ドイツ語でバッハ(Bach)という言葉は「小川」という意味ですので、この名言は単なる駄洒落であるとともに、それ以前の音楽の様式がすべてバッハに流れ込んでおり、バッハはそれ以前の音楽を受け止めた大きな海のような存在であると解釈されてきました。そこで本日の演奏会は「バッハに流れ込む音楽史的潮流」と題しまして、ポリフォニー様式の合唱曲が発達したルネサンス音楽、バッハに直接の影響を与えたドイツバロックの音楽、そしてその一つの到達点としてのバッハの音楽をお聴きいただきます。

15世紀の中頃からの約一世紀の間、音楽の中心地は北フランスからベルギーにかけてのフランドル地方でした。フランドル楽派の音楽家たちは声楽によるポリフォニー音楽を発達させました。最初にお聴きいただくのは、ピエール・ド・ラ・リュー(de la Rue, Pierre c.1452-1518) による「幸いあれ、天の女王(Ave regina caelorum)」です。ド・ラ・リューは20歳代ではイタリアのシエーナ大聖堂の歌手であったという記録が残されていますが、その後はほとんどブリュッセルを中心として作曲を行ったようです。ド・ラ・リューの音楽は典型的なフランドル楽派の様式によるもので、各声部が独立して主題を模倣して行く「通模倣様式」と呼ばれるものに拠っています。テキストはカトリックの聖務日課のうち、終課で歌われる聖母マリア賛歌のうちの一つです。
続く「貴方だけが驚くべき御わざをなさる方(Tu solus qui facis mirabilia)」は当時から「最大の作曲家」と讃えられていたジョスカン・デ・プレ(des Prez, Josquin c.1450/55-1521)の作品です。ジョスカンの通常の作品は「通模倣様式」によるものですが、このモテットは例外的に和声の表現力に重点が置かれています。「受難」の表現として、この例外的な様式が用いられていると考えられます。

ディーテリッヒ・ブクステフーデ(Buxtehude, Dieterich c.1637-1707)の出生に関する正確な記録は残されていませんが、1707年7月の死亡記事によると「およそ70年の生涯を終えた」と記述されていることからブクステフーデの生年は1637年と推定されています。そしてその時期に父ヨハネス(Buxtehude, Johannes 1602-1674) がオルガニストとして活動していたことから、ヘルシングボリが出生地と推定されています。ブクステフーデは、父のもとで音楽教育を受け、1657年に父が在職していたヘルシングボリの聖マリア教会のオルガニストに、そして1660年にはヘルセンゲアの聖マリア教会のオルガニストに就任しました。
1667年11月5日にリューベックの聖マリア教会のオルガニスト、フランツ・トゥンダー(Tunder, Franz 1614-1667) が亡くなり、翌年の1668年4月11日にブクステフーデは多くの志願者の中からその後任に選ばれます。同年8月には前任者トゥンダーの下の娘であるアンナ・マルガレーテ(Tunder, Anna Margaretha 1646-?)と結婚しますが、結婚が就任の条件であったかは不明です。しかし後にマッテゾン(Mattheson, Johann 1681-1764) とヘンデル (Händel, Georg Friedrich 1685-1759)がブクステフーデから後任者としての要請を受けた際に、娘との結婚を条件として提示されたため二人とも興味を失ったと言われています。1705年にリューベックを訪れたバッハも同様であったようです。ブクステフーデの後任には死後すぐに、助手を務めていたシーファーデッカー(Schieferdecker, Johann Christian 1679-1732) が娘のアンナ・マルガレータ(Buxtehude, Anna Margreta 1675-1709) と結婚して就任しました。ブクステフーデは40年近くにわたって聖マリア教会での職務を行い1707年5月9日に亡くなります。「まこと気高く、大いなる誉れに満ち、世にあまねく知られた」と追悼詩に歌われました。約120曲の声楽曲、約90曲のオルガン曲、他にチェンバロのための作品、室内楽作品が残されています。

最初に演奏するカンタータ「天使に命じて下さい、来るようにと (Befiehl dem Engel, dass er komm BuxWV10)」はルター派の詩人エラスムス・アルベルス(Alberus, Erasmus c.1500-1553) による夕べの賛歌であるコラール「キリストよ、あなたは明るき光です(Christ, der du bist der heilig Tag)」の第6および第7節に基づいて作曲されています。四声部の合唱と二つのヴァイオリン、そして通奏低音(チェロ、コントラバス、オルガン)で演奏されます。

続きまして、ヨハン・ローゼンミュラー(Rosenmüller, Johann c.1619-1684)による弦楽合奏とオルガンによる音楽をお聴きいただきます。この作曲者はライプツィッヒ大学で神学を学びますが、音楽の勉強も続けて行い1653年には後にバッハが就任する聖トーマス教会カントルの職に就くことが内定していました。しかし1655年に同性愛の容疑で逮捕、投獄されるというスキャンダルを起こし、その後はイタリアに逃れヴェネツィアで作曲および演奏を続けました。「室内ソナタ、すなわちシンフォニアより第3番(Sonata da Camera cioe Sinfonie, Sinfonia Terza)」は舞曲を組み合わせた組曲の形式をとっています。二つのヴァイオリン、二つのヴィオラ、そして通奏低音という編成によります。

前半の最後はもう一曲ブクステフーデのカンタータです。「我は神の御心のままに(Walts Gott, mein Werk ich lasse BuxWV103」ではバッハのマタイ受難曲で繰り返し歌われるコラール「血潮したたる主の御頭 (O Haupt voll Blut und Wunden)」の旋律が6回にわたり繰り返し歌われます。しかしこのカンタータの歌詞の内容はキリストの受難を主題としたものではなく、大意として「神のみこころのままに私は一日の仕事を終え感謝と共に休みます。神は私を助け力を与え私の仕事に成果をもたらします。ゆえにこの夕べに心から主を讃えます。この町を災難から守り平和を与えて下さい。そして私が仕事を全うした後に永遠の安息を与えて下さい」と歌います。

プログラムの後半ではブクステフーデの、やや規模の大きいカンタータを演奏します。「汝らが言葉や行いで示すすべてを (Alles, was ihr tut, mit Worten oder mit Werken BuxWV4)」はブクステフーデの生前に最も有名な声楽作品でした。全体は8曲から構成されており、第1曲は5声部の弦楽合奏と通奏低音からなる器楽によるソナタで、第2曲はコロサイの信徒への手紙 3:17を歌詞とする合唱が加わります。第3曲は第1曲を繰り返し、第4曲は作者不詳の有節詩を3節にわたって歌う合唱によるアリアです。第5曲は詩編37:4を歌詞とするバス独唱によるアリオーゾで、第6曲は、ソプラノ独唱と弦楽合奏によりゲオルグ・ニーゲ(Niege, Georg 1525-1589) 作詞によるコラールを歌い、引き続き合唱が受け継ぎます。続く第7曲は器楽によるソナタで、そのまま第8曲に入ります。この終曲の前半は第2曲の反復ですが後半は装飾的な音型によって力強く華やかな音楽になっていきます。

J.Sバッハは1685年3月21日に中部ドイツの小都市アイゼナッハで音楽家の家系の一族に生まれました。1700年にはリューネブルクの聖歌隊員となり寄宿学校で学び、卒業後1703年にアルンシュタット、1707年にはミュールハウゼンのオルガニストに採用されました。1707年10月17日にはマリーア・バルバラ(Bach, Maria Barbara 1684-1720)と結婚します。バッハの最も初期のカンタータはこの時代に作曲されています。1705年10月よりリューベックに滞在しブクステフーデのオルガン演奏や教会音楽に大きな影響を受けました。1708~17年はヴァイマールで宮廷オルガニストと楽師長を務め、1717~23年にはライプツィッヒ北西50kmのケーテンの宮廷楽長に就任します。音楽好きの領主レオポルド公(Leopold von Anhalt-Köthen, 1694-1728)は水準の高い宮廷楽団を維持していました。バッハは楽団の名手たちのために「ブランデンブルク協奏曲」をはじめとする多くの器楽曲を作曲しました。ケーテン時代はバッハの人生では幸福な時代であったとされています。しかし、1720年7月に妻バルバラが4人の子供を残して急死します。バッハは翌年の1721年12月3日に宮廷ソプラノ歌手で20歳のアンナ・マグダレーナ・ヴィルケ(Wilcke, Anna Magdalena 1701-1760)と再婚しました。バッハはアンナ・マグダレーナとの間に13人の子供をもうけましたが、成人したのは6人だけでした。同じ頃レオポルド公も再婚しましたが、新しい后妃が音楽嫌いであったためバッハは転職を考えます。そして1723年にトーマス教会カントルに就任しました。バッハは市内の教会のために作曲し、練習して演奏する上に、教会付属学校の教師としての職務もこなしましたが、最初の1年間になんと約50曲の新作のカンタータを演奏しています。その後も晩年に至るまでバッハの創作は続き、1747年にはフリードリッヒ大王(Friedrich II. 1712-1786)の主題による「音楽の捧げ物」、1749年にかけて「ミサ曲ロ短調」、「フーガの技法」といった集大成的な作品がまとめられます。1750年3月に白内障の手術後にバッハは視力を失います。7月18日卒中の発作がおこり、10日後の7月28日に65年の生涯を閉じました。「故人略伝」(息子エマーニエル(Bach, Carl Philipp Emanuel, 1714-1788)らによるバッハの年代記)には「バッハは救い主の功徳を願いつつ平穏かつ浄福に世を去った」と記されています。

カンタータ第131番「主よ、深い淵の底からあなたに叫びます(Aus der Tiefen rufe ich, Herr,zu dir BWV131)」はミュールハウゼン時代の1707年あるいは1708年に作曲されました。バッハにとって最も初期のカンタータです。悔い改めの礼拝で演奏されたと推測されています。歌詩はルター(Luther, Martin 1483-1546)訳による詩編第130編とリングヴァルト(Ringwaldt, Bartholomäus c.1532-c.1599)によるコラール「主イエス・キリスト、至高の宝(Herr Jesu Christ, du höchstes Gut)」が組み合わされています。第1曲はオーケストラによるシンフォニアと合唱により「深い淵より主を呼ぶ私の声に耳を傾けて下さい」という祈りを歌います。連続する第2曲では詩編によるバス独唱により主の裁きと赦しが歌われ、合唱によるコラールが神の贖いと赦しを歌います。第3曲ではホモフォニックな導入部に続いてフーガに移行します。この部分では異なる様式の音楽が重層的に進行します。合唱のフーガはルネサンスの声楽ポリフォニー音楽、器楽の低音部はバロックを象徴する通奏低音様式、オーボエによるオブリガートは盛期バロックから古典派に至る多感様式といったように異なる様式の音楽が同時に響きます。ベートーヴェンの「バッハは小川ではなく大海だ」という言葉を体現している音楽であると思われます。第4曲ではテノール独唱により詩編中の夜明けを待つ夜警の歌が歌われ、そこに合唱によるコラールが罪の贖いを希望する心を歌います。第5曲ではプレリュードとフーガの形式を用いて、悔い改めを通じての将来への希望を歌い、全曲の終結を教会旋法によるフリギア終止で締めくくっています。バッハの初期のカンタータはレチタティーヴォとアリアのような単純な構成ではなく、自由な形式が取られています。そして新鮮な楽想と創意工夫に満たされた音楽によって、歌詞の内容が深く表現されている完成度の高い音楽となっています。

本日は古楽器によるオーケストラと共にA=415Hzのピッチで演奏いたします。これは現代における古楽器によるバロック音楽演奏の標準的なピッチです。ちなみに現代の標準ピッチA=440Hzは1939年にロンドンでの国際会議で決められたものです。


<オルガン曲> 渡部聡

ピエール・アテニャンは16世紀初めにパリで活躍した出版業者です。多くのシャンソンやミサ曲など声楽曲を出版しましたが、1530~31年に7冊の鍵盤楽器用曲集を出版し、これがフランスで最初に出版された鍵盤曲集となりました。7冊のうち3冊はシャンソンの編曲、3冊がミサやマニフィカトなど典礼用の曲集、そして1冊が舞曲集です。本日はこの舞曲集から2曲、ガイヤルド(3拍子系)とブランル(4拍子系)を続けて演奏します。
アンドレア・アンティーコはヴェネツィアを拠点に活躍した作曲家・出版業者です。「フロットラ」と呼ばれる世俗合唱曲を多く出版しましたが、これらのオルガン用編曲をローマで1517年に出版し、印刷された鍵盤曲集としてはこれが最古のものとなりました。声楽用の原曲をほぼ忠実に鍵盤用に移し、控えめな装飾パッセージを加えた編曲となっています。


【歌詞対訳】

演奏会記録のページに戻る