第38回定期演奏会《ドイツ・バロック 教会音楽の精華》2025.11.23

<演奏者>
指揮 鈴木優/ソプラノ 鈴木美紀子/メゾソプラノ 紙谷弘子/テノール 谷川佳幸/バリトン 室岡大輝/コンサート・ミストレス 神戸愉樹美/
オーケストラ:つくば古典音楽合奏団(第一ヴァイオリン 神戸愉樹美 渡邊慶子; 第二ヴァイオリン 宮崎桃子 宮﨑蓉子; 第一ヴィオラ 小林瑞葉; 第二ヴィオラ 中島由布良; チェロ 野津真亮; コントラバス 井上陽; オーボエ 尾﨑温子; ファゴット 永谷陽子; トランペット 村上信吾; オルガン 渡部聡)
練習ピアニスト:中山ちあき
合唱:つくば古典音楽合唱団


<プログラムと演奏録音>

Paulo Bruna(1611-1679) P.ブルーナ
Tiento de medio registro de mano derecha de 1° tono 分割鍵盤右手による第一旋法のティエント(オルガン独奏) 38-01.mp3 6:08
Giovanni Pierluigi da Palestrina(1525–1594) G.P.パレストリーナ
Missa brevis ミサ・ブレヴィスより
Kyrie いつくしみの賛歌(キリエ) 38-02.mp3 3:05
Gloria 栄光の賛歌(グロリア) 38-03.mp3 3:18
Georg Friedrich Händel(1685-1759) G.F.ヘンデル
Messiah Part II メサイア第II部より
19.Chorus 19.合唱 38-04.mp3 3:00
20.Aria(Alto) 20.アリア(アルト独唱) 38-05.mp3 10:01
21.Chorus 21.合唱 38-06.mp3 1:54
22.Chorus 22.合唱 38-07.mp3 1:53
23.Chorus 23.合唱 38-08.mp3 4:12
-休憩-
Dieterich Buxtehude(1637-1707) D.ブクステフーデ
Alles, was ihr tut, mit Worten oder mit Werken; BuxWV 4 あなたがたが言葉や行いで示すことのすべてを
1.Sonata 1.ソナタ(器楽合奏) 38-09.mp3 1:22
2.Concerto 2.コンチェルト(合唱) 38-10.mp3 1:37
3.Sonata 3.ソナタ(器楽合奏) 38-11.mp3 1:18
4.Aria 4.アリア(合唱) 38-12.mp3 2:22
5.Arioso(Bas-solo) 5.アリオーゾ(バス独唱)
6.Choral(Soprano-Solo & Chor) 6.コラール(ソプラノ独唱と合唱) 38-13.mp3 4:23
7.Sonata 7.ソナタ(器楽合奏) 38-14.mp3 0:54
8.Concerto 8.コンチェルト(合唱) 38-15.mp3 1:15
Johann Sebastian Bach(1685-1750) ​J.S.バッハ
Weinen, Klagen, Sorgen, Zagen; BWV 12 カンタータ/泣き、苦しみ、悩み、おののき
1.Sinfonia 1.シンフォニア(器楽曲) 38-16.mp3 2:30
2.Coro 2.合唱 38-17.mp3 5:59
3.Recitativo 3.レチタティーヴォ 38-18.mp3 0:42
4.Aria(Alto) 4.アリア(アルト独唱) 38-19.mp3 7:20
5.Aria(Basso)​ 5.アリア(バス独唱) 38-20.mp3 2:14
6.Aria(Tenore) 6.アリア(テノール独唱) 38-21.mp3 4:19
7.Choral 7.コラール(合唱) 38-22.mp3 1:04
〜 encore 〜
J.S.Bach:Jesus bleibet meine Freude 主よ、人の望みの喜びよ 38-23.mp3 3:15

<プログラムノート> 鈴木優

本日はお忙しい中、つくば古典音楽合唱団 第38回定期演奏会にご来場いただき、まことにありがとうございます。短い秋も過ぎ、冬の寒さを感じる季節となりますと、あの厳しく長い夏が懐かしく思われます。冷房設備は整っているとはいえ、6月中旬から9月中旬まで、たっぷり3ヵ月の夏の間にも毎週水曜日と月一回の日曜日の練習を休まずに行いました。この期間にしっかり練習しておきますと秋になって気候が良くなりました時に、突然良い演奏ができるようになることを毎年経験しております。今年の夏も合唱団員の練習への熱意と出席率はとても高いものでした。おそらく本日は良い演奏ができるのではないかと思います。どうぞ皆様、最後までお楽しみください。

本日の演奏会は「ドイツ・バロック 教会音楽の精華」と題しましてドイツ・バロックを代表する3人の作曲家、ヨハン・セバスティアン・バッハ(Bach, Johann Sebastian 1685-1750)、ゲオルク・フリードリッヒ・ヘンデル(Händel, Georg Friedrich 1685-1759)、ディーテリッヒ・ブクステフーデ(Buxtehude, Dieterich c.1637-1707)の作品を中心にお聴きいただきます。

演奏会の冒頭ではオルガン独奏の後に、バロック音楽の先駆けとなるルネサンスの教会音楽をア・カペラ(無伴奏の合唱)で演奏いたします。ヨーロッパの音楽史は1450~1600年をルネサンス、1600~1750年をバロックとお考え下さい。本日はジョヴァンニ・ピエルルイージ・ダ・パレストリーナ(Palestrina, Giovanni Pierluigi da 1525–1594)の「ミサ・ブレヴィス」よりキリエとグロリアの2章を演奏します。ルネサンス期で最も有名な作曲家のひとり、パレストリーナは、ローマ近郊のパレストリーナという所に1525年に生まれました。出身地の名前が本人の通称となっています。1544年に故郷でオルガニストとなり、1551年に聖ピエトロ寺院歌手、1554年ラテラーノ教会楽長、1567年エステ枢機卿楽長、1571年には聖ピエトロ寺院第2楽長の地位を得ました。生涯のほとんどをローマで過ごし、90曲以上のミサ曲、500曲以上のモテット、約100曲のマドリガルなどを残しました。 パレストリーナの音楽の特徴は、15~16世紀半ばのフランドル出身の音楽家たちが極めた、各声部が独立して主題を模倣して行く「通模倣様式」による声楽ポリフォニーの技法と、イタリア的な旋律や豊かな和声を統合したものだといえるでしょう。順次進行の多い柔らかな旋律線、安定した協和音、注意深く用いられた不協和音、バスの声部が多くの部分で和声の根音となり安定した響きをもたらしている、といった要素が大きな聖堂で美しく響くパレストリーナ独特の調和のとれた世界を形成しています。パレストリーナは単にルネサンスの音楽家であるのにとどまらず、保守的ではありますがバロックへの道を開いた音楽家である、と言う事ができるでしょう。

続いてはヘンデルのオラトリオ「メサイア」第二部の冒頭の合唱とアルトのアリアをお楽しみください。ヘンデルは1685年2月23日にドイツのハレに生まれます。父親は宮廷の外科医兼侍僕でした。ヘンデルは幼少より音楽の才能を発揮し、後にはオペラの作曲に強い関心を寄せました。最初のオペラ「アルミーラ」は1705年1月8日にハンブルクの劇場で好評をもって初演されました。1706年から1710年にかけてイタリアで過ごし、その間にイタリア語による声楽曲の作曲技法を習得します。1719年にはロンドンで彼自身が「運命をかける」と語った、オペラ上演のための株式会社「王宮音楽アカデミー」の音楽監督となります。この事業は当初成功しますが、年々財政は悪化し1728年6月1日には破産となります。ヘンデルはなおもオペラの作曲に執着しますが1737年4月13日、卒中の発作を起こしてしまいます。静養の後10月末、ロンドンに戻り新しいオペラの作曲に取りかかりますが、オペラによって過去の栄光を取り戻すことはできませんでした。翌1738年には経済上の問題で、翌シーズンのオペラ上演中止を発表しなければなりませんでした。この年以来ヘンデルはオペラからオラトリオへと方針を転換し、最初に「サウル」と「エジプトのイスラエル人」の二つのオラトリオを作曲します。オラトリオとオペラの大きな違いは題材を旧約聖書に求めたこと、歌詞を英語にしたこと、演技をしないで上演したことが挙げられます。ヘンデルのオラトリオは教会での礼拝用の音楽ではなく、劇場で上演するための音楽です。オラトリオは次第に大きな支持を集めてゆき、そして1741年9月14日に「メサイア」が完成し、熱狂的な成功を収めます。その後ヘンデルは1751年の夏に白内障により左眼の視力を失い、さらに翌年8月には右目の視力も失います。1759年4月6日、「メサイア」演奏の後、ヘンデルは死期が近いことを悟り、遺書に「困窮した音楽家とその家族のための」巨額の寄付の項を書き加え、復活祭の4月14日の朝、74歳で静かに息をひきとります。4月20日の葬儀には三千人もの人が参列し、遺体はウエストミンスター大聖堂に埋葬されました。今日でも大聖堂内で「メサイア」の楽譜を手にしたヘンデルのモニュメントを見ることができます。
オラトリオ「メサイア」はチャールズ・ジェネンズ(Jennens, Charles 1700-1773)が聖書全体から構成した台本によっています。53曲からなる全曲を概観することによって、イエス出現の先触れとなる洗礼者ヨハネのエピソードから、イエスの受難を通じてこの世が神の国となり、救世主が永遠の命をもたらすといった、キリスト教とはどのような宗教であるかを知ることができます。本日は受難をあつかう第二部の冒頭を演奏いたします。教会の礼拝ではなく劇場で聴衆の興味を引き付ける、変化に富んだ文字通り劇的な音楽をお聴き下さい。

ブクスデフーデの出生に関する正確な記録は残されていません。1707年7月、「バルト海の新しい読み物(Nova literaria Maris Balthici)」誌に掲載されたブクステフーデの死亡記事によると「彼はデンマークを祖国とし、そこから当地にやってきて、およそ70年の生涯を終えた」と記述されています。この記事からブクステフーデの生年は1637年、そしてその時期に父ヨハネス(Buxtehude, Johannes 1602-1674)が当時デンマーク領であったヘルシングボリでオルガニストとして活動していたことから、当地が出生地と推定されています。ブクステフーデは父が後に移り住んだデンマークのヘルセンゲアにおいてラテン語学校に通い、父のもとで音楽教育を受けたものと考えられています。ブクステフーデは1657年にかつて父が在職していたヘルシングボリの聖マリア教会のオルガニストに、そして1660年にはヘルセンゲアに戻り聖マリア教会のオルガニストに就任しました。1667年11月5日に北ドイツで重要な地位であるリューベックの聖マリア教会のオルガニスト、フランツ・トゥンダー(Tunder, Franz 1614-1667)が亡くなりますと、翌1668年4月11日にブクステフーデは多くの志願者の中からその後任に選ばれます。同年8月には前任者トゥンダーの下の娘であるアンナ・マルガレーテ(Tunder, Anna Margaretha 1646-?)と結婚しますが、この結婚が就任の条件であったかどうかは不明です。しかし後の1703年にマッテゾン(Mattheson, Johann 1681-1764)とヘンデルがリューベックを訪れた際ブクステフーデから後任者としての要請を受けたと言われていますが、その際に娘との結婚を条件として提示されたため二人ともすぐに興味を失ったと言われています。1705年にリューベックを訪れたバッハも同様であったようです。結局、ブクステフーデの逝去後すぐに、助手を務めていたシーファーデッカー(Schieferdecker, Johann Christian 1679-1732)が娘のアンナ・マルガレータ(Buxtehude, Anna Margreta 1675-1709)と結婚して後任者となりました。ブクステフーデは40年近くにわたって聖マリア教会での職務を行い1707年5月9日に亡くなりました。「まこと気高く、大いなる誉れに満ち、世にあまねく知られた」と追悼詩に歌われました。約120曲の声楽曲、約90曲のオルガン曲、他にチェンバロのための作品、室内楽作品が残されています。
カンタータ「汝らが言葉や行いで示すすべてを(Alles, was ihr tut mit Worten oder mit Werken BuxWV4)」は8曲の部分から構成されています。第1曲は5声部の弦楽合奏と通奏低音からなる器楽によるソナタです。第2曲は4声部の合唱が加わります。前半はホモフォニックな音楽で後半には装飾的なメリスマ唱法のフレーズが現れます。歌詞はコロサイの信徒への手紙 3:17から取られています。第3曲は第1曲を繰り返します。第4曲はコラール風な合唱によるアリアです。作者不詳の有節詩を3節にわたって歌います。第5曲はバス独唱によるアリオーゾです。歌詞は詩編37:4によります。第6曲は、まずソプラノ独唱と弦楽合奏によりゲオルグ・ニーゲ(Niege, Georg 1525-1589)作詞によるコラール詩を歌います。引き続き合唱が受け継ぎます。旋律は16世紀の作者不詳の曲のようです。続く第7曲は短い器楽によるソナタで、そのまま第8曲に入ります。この終曲は前半は第2曲の反復ですが後半は装飾的なフレーズによって力強く華やかな音楽になっていきます。

J. S. バッハは1685年3月21日に中部ドイツの小都市アイゼナッハで音楽家の家系の一族に生まれました。1700年にはリューネブルクの聖歌隊員となり寄宿学校で学び、卒業後1703年にアルンシュタット、1707年にはミュールハウゼンのオルガニストに採用されました。1707年10月17日にはマリーア・バルバラ(Bach, Maria Barbara 1684-1720)と結婚します。バッハの最も初期のカンタータはこの時代に作曲されています。1705年10月よりリューベックに滞在しブクステフーデのオルガン演奏や教会音楽に大きな影響を受けました。1708~17年はヴァイマールで宮廷オルガニストと楽師長を務め、1717~23年にはライプツィッヒ北西50kmのケーテンの宮廷楽長に就任します。音楽好きの領主レオポルド公(Leopold von Anhalt-Köthen, 1694-1728)は水準の高い宮廷楽団を維持していました。バッハは楽団の名手たちのために「ブランデンブルク協奏曲」をはじめとする多くの器楽曲を作曲しました。ケーテン時代はバッハの人生では幸福な時代であったとされています。しかし、1720年7月に妻バルバラが4人の子供を残して急死します。バッハは翌年の1721年12月3日に宮廷ソプラノ歌手で20歳のアンナ・マグダレーナ・ヴィルケ(Wilcke, Anna Magdalena 1701-1760)と再婚しました。バッハはアンナ・マグダレーナとの間に13人の子供をもうけましたが、成人したのは6人だけでした。同じ頃レオポルド公も再婚しましたが、新しい后妃が音楽嫌いであったためバッハは転職を考えます。そして1723年にトーマス教会カントルに就任しました。バッハは市内の教会のために作曲し、練習して演奏する上に、教会付属学校の教師としての職務もこなしましたが、最初の1年間になんと約50曲の新作のカンタータを演奏しています。その後も晩年に至るまでバッハの創作は続き、1747年にはフリードリッヒ大王(Friedrich Ⅱ. 1712-1786)の主題による「音楽の捧げ物」、1749年にかけて「ミサ曲ロ短調」、「フーガの技法」といった集大成的な作品がまとめられます。1750年3月に白内障の手術後にバッハは視力を失います。7月18日卒中の発作がおこり、10日後の7月28日に65年の生涯を閉じました。「故人略伝」(息子エマーニエル(Bach, Carl Philipp Emanuel, 1714-1788)らによるバッハの年代記)には「バッハは救い主の功徳を願いつつ平穏かつ浄福に世を去った」と記されています。
本日演奏いたしますカンタータ第12番「泣き、苦しみ、悩み、おののき」はバッハの28歳の年、1714年の復活祭後第3日曜日のために作曲されました。この時代バッハはヴァイマールの宮廷の楽師長の地位にあり、定期的にカンタータの作曲をする義務を負っていました。バッハのカンタータ創作のピークを1723年のライプツィヒ・トーマス教会カントル就任以降とする意見は当然ですが、すでにヴァイマール時代にすばらしいカンタータを残していたことも事実と言えるでしょう。第一曲はオーボエ独奏を中心とした器楽によるシンフォニアです。第二曲はラメント・バス(嘆きの低音)を用いたシャコンヌ形式の悲しみの合唱曲です。この曲は後に「ロ短調ミサ曲」の「十字架につけられし」として転用されます。第三曲~第四曲はアルト独唱によるレチタティーヴォとアリアで「キリスト教徒には常に苦しみと敵がいる、しかしキリストの御傷が慰めとなる」と歌います。第五曲はバス独唱によるアリアで「私は平安な時も苦難の時もキリストに従い、離れない」と歌います。第六曲はテノールによるアリア(トランペットによる定旋律に「イエスはわが喜び」が聴かれます)で「誠実であれ、すべての苦悩はやがて小さくなる」と歌います。そして終曲である第七曲はコラールの楽章で「神のなされることは善いことである。苦難と死に陥っても、私は神にすべてを委ねる」と答えます。

本日は古楽器によるオーケストラと共にA=415Hzのピッチで演奏いたします。これは現代における古楽器によるバロック音楽演奏の標準的なピッチです。ちなみに現代の標準ピッチA=440Hzは1939年にロンドンでの国際会議で決められたものです。


<オルガン曲> 渡部聡

ブルーナはスペイン古典オルガン黄金期を築いたカベソン、アラウホなどに続く世代のオルガニスト作曲家で、サラゴサ近郊のダロカに生まれこの地で活躍しました。幼くして天然痘で失明し、盲目のオルガニストとして名を馳せましたが、国王フェリペ4世はマドリッドからサラゴサに向かう際にはわざわざダロカまで足をのばしてブルーナの演奏を聴いたと伝えられています。スペイン古典期のオルガンは多くの場合高音部と低音部を別々の音栓(ストップ)で操作するように作られていて、この分割鍵盤(medio registro)を活かしてあたかも2段鍵盤で弾いているような効果を得られる曲が多数作曲されました。本日は通常のオルガンに一部手を加えてこの分割鍵盤の効果を再現してみます。


【歌詞対訳】

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