第18回定期演奏会《ヴェネツィアとパリの光と影》2004.12.4

<演奏者>
指揮 鈴木優 / ソプラノ 山内房子 / バリトン 山崎岩男 / オルガン 渡部聡 / コンサート・ミストレス 神戸愉樹美 / オーケストラ つくば古典音楽合奏団(ヴァイオリン&ヴィオラ 神戸愉樹美,上田美佐子 ; ヴィオラ 大澤美佳,濱井柚三子,岩沢千絵 ; 第1チェロ 高群輝夫,三間早苗 ; 第2チェロ 武井英哉,たのうち恵美 ; コントラバス 田中洪至 ; ホルン 広川実, 木村隆 ; オルガン 渡部聡) / 合唱 つくば古典音楽合唱団


<プログラムと演奏録音>

Girolamo Frescobaldi (1583-1643) フレスコバルディ
Toccata seconda (libro II) トッカータ第2番 18-01.mp3 4:34
Claudio Monteverdi (1567-1643) モンテヴェルディ
Laudate pueri しもべらよ、主を讃めたたえよ 18-02.mp3 5:29
 (Messa a 4 voci et Psalmi, 1651)  (遺作集「4声のミサ曲と詩編曲集」より)
Claudio Monteverdi (1567-1643) モンテヴェルディ
Confitebor terzo alla francese 主よ、私はあなたに感謝を捧げる 第3番フランス風 18-03.mp3 6:54
 (Selva morale e spirituale, 1640)  (「倫理的・宗教的な森」より)
Tarquinio Merula (1594/5-1665) メールラ
Capriccio cromatico 半音階的カプリッチォ 18-04.mp3 4:08
Claudio Monteverdi (1567-1643) モンテヴェルディ
Beatus Primo いかに幸いなことか、主を畏れる人は 第1番 18-05.mp3 9:18
 (Selva morale e spirituale, 1640)  (「倫理的・宗教的な森」より)
Claudio Monteverdi (1567-1643) モンテヴェルディ
Dixit Dominus 主が私の主に言われた 18-06.mp3 8:57
 (Vespro della beata Vergine, 1610)  (「聖母マリアの夕べの祈り」より)
-休憩-
Gabriel Fauré (1845-1924) フォーレ
Requiem, Op. 48 レクイエム 作品48
Ⅰ.  INTROIT _ KYRIE  入祭唱(永遠の安息を)& 憐れみの賛歌(主よ、憐れみたまえ) 18-07.mp3 6:05
Ⅱ.  OFFERTORIUM  奉献唱(主イエス・キリストよ) 18-08.mp3 7:57
Ⅲ.  SANCTUS  感謝の賛歌(聖なるかな) 18-09.mp3 2:49
Ⅳ.  PIE JESU  憐れみ深きイエスよ 18-10.mp3 2:57
Ⅴ.  AGNUS DEI  平和の賛歌(神の子羊) 18-11.mp3 5:03
Ⅵ.  LIBERA ME  私を解き放ちたまえ 18-12.mp3 4:24
Ⅶ.  IN PARADISUM  楽園へ 18-13.mp3 3:12
Encore: Fauré
Cantique de Jean Racine, Op.11 ジャン・ラシーヌの讚歌 作品11 18-14.mp3 5:11

<プログラムノート> 鈴木優

本日のつくば古典音楽合唱団第18回定期演奏会ではプログラムの前半にイタリア初期バロックの巨匠、クラウディオ・モンテヴェルディの教会音楽を、そして後半にはフランスを代表する作曲家、ガブリエル・フォーレのとても有名な「レクイエム」を演奏いたします。

この二人の作曲家は、活躍した時期には約3世紀の隔たりがあるわけですが、二人とも2つの世紀にまたがって創作活動をし、音楽史上の様式の転換期に重要な役割を果たすという共通点を見出すことができます。

モンテヴェルディは16~17世紀に生き、ルネサンス様式と新しいバロック様式の両方で、そして更にそれを融合させた形で優れた作品を残しました。

そしてフォーレは19~20世紀にその生涯を送り、ロマン主義全盛の時代からフランス近代音楽の礎を築きます。この流れは更にラヴェル、ドビッシーらによって印象主義の音楽へと結実して行きます。

この二人の音楽には当然ながら、背景となる時代精神や地域性の違いから大きくスタイルの違いがあります。

しかしながらカトリックの教会音楽という共通項に視点を移すと、やはりグレゴリオ聖歌以来の豊かな伝統の上にそれぞれの時代で立脚しているという、確かな縦糸で結ばれているのを感じます。

毎回演奏会のたびに思うのですが、今夜の私達の演奏が、これらの音楽の価値を少しでも聴衆の皆様にお伝えすることができればと、願って止みません。

*  *  *

モンテヴェルディは1567年5月15日に、イタリアのロンバルディ地方の町クレモナに生まれました。この町は 17世紀にストラディヴァリウスらが優れたヴァイオリンを製作したことで有名になります。

早くから音楽の才能を現していたモンテヴェルディは当地の大聖堂楽長であったマルカントーニオ・インジュネーリの教えを受け、15歳にして最初の作品集「3声の聖歌曲集」を出版いたします。当時楽譜の出版はそう簡単にはできない事であり、いかに早くからその才能が注目されていたかが証明されると思います。

1590年、23歳の年にマントヴァ公爵のヴィンチェンツォ一世の宮廷に歌手兼ヴィオール奏者として就職し、1601 年には宮廷楽長に就任します。

モンテヴェルディのマントヴァ時代は、経済的には必ずしも恵まれたものではなく、また最愛の妻クラウディアに若くして先立たれたりといったように様々な生活上の困難がありました。しかしながら創作上では実り豊かな時期でした。1603年の「マドリガーレ集第4巻」、そして通奏低音が付された1605年の「第5巻」は新しい劇的な表現様式を確立しました。また1607年に初演されたオペラ「オルフェオ」は、その後今日までの400年間に作られた無数のオペラの中でも間違いなく最高水準のもののひとつです。

1612年2月にヴィンチェンツォ一世が亡くなった後、その後継者は音楽に興味を持たず、モンテヴェルディは解雇されてしまいます。

モンテヴェルディは故郷のクレモナに帰りますが、ヴェネツィアから招聘を受け1613年8月19日にサン・マルコ大聖堂の楽長となります。そして残りの30年間の人生をここで送りました。

ヴェネツィアでのモンテヴェルディは多くの教会音楽を作曲しました。その中でも特に選びぬかれた40曲が「倫理的・宗教的な森」と題され1640年に出版されます。またモンテヴェルディ自身も65歳の年に聖職者となりました。

しかし同時に世俗的音楽の作曲も続け、「戦いと愛のマドリガーレ」、そして晩年近くにも1641年に「ウリッセの帰郷」、1642年に「ポッペアの戴冠」と2本のオペラを作曲するなど、最期まで創作の筆が衰えることはありませんでした。

1643年11月29日、悪性の熱病によってモンテヴェルディはその76年間の生涯を閉じます。多くのヴェネツィア市民が参列する盛大な葬儀が行われ、フラーリ教会に埋葬されました。

*  *  *

モンテヴェルディの音楽の基礎は、当時すでに「古様式」と呼ばれていたフランドルの音楽家からパレストリーナに至る対位的なポリフォニー様式です。モンテヴェルディはこれを「第一の作法」と呼んでいます。そして「新様式」と呼ばれる、通奏低音の上に独唱・合唱・独立した器楽の声部が自由に応答する協奏様式が16世紀の終わり頃から台頭してきます。モンテヴェルディはこれを「第二の作法」と呼んでいます。

この時代に音楽のあり方を巡って、それぞれの様式の信奉者たちの間で論争がありました。しかしモンテヴェルディは、この両方の様式を完全に使いこなし、なおかつ融合させるという自由で独自な作曲技法を示しました。

本日は4曲の教会音楽を演奏いたします。そういったスタイルの違いをも含めてお楽しみいただければと存じます。

「しもべらよ、主を讃めたたえよ」(Laudate pueri)は、モンテヴェルディの死後1651年に出版された遺作集に収録されています。「5声部のア・カペラで」と指示されており、ポリフォニー様式が基本となっています。しかしながら、変化に富んだリズムや和声、そして結尾の小栄誦(「父、御子、聖霊に栄光あれ」以降の部分)で冒頭の主題が回帰した後の展開など、モンテヴェルディならではの音楽となっています。

「主よ、私はあなたに感謝を捧げる 第3番」(Confitebor)は1640年に出版された「倫理的・宗教的な森」に収められています。この曲には「フランス風の様式の5声部で、ただしソプラノ声部を独唱にし、4つのヴィオラを用いることもできる」と指示されています。本日の演奏ではソプラノ独唱(部分的に二重唱)、5声部の合唱と通奏低音で演奏いたします。「フランス風」というのは、この曲の冒頭に聴かれるように、まず独唱者が歌ったフレーズをそのまま合唱が反復するという形を指すようです。結尾の小栄誦では当時のオペラ「オルフェオ」などに聴かれるような技巧的なコロラトゥーラのパッセージが独唱者によって歌われます。

「いかに幸いなことか、主を畏れる人は 第1番」(Beatus)も「倫理的・宗教的な森」の中の1曲です。「2つのヴァイオリンと省くこともできる3つのヴィオラまたは3本のトロンボーンを持つ6声のコンチェルタート」と説明されています。本日は2つのヴァイオリン、6声の声楽パートは全て合唱で歌い、通奏低音がこれを支えるという編成で演奏いたします。三拍子の中間部をはさんだ三部形式となります。中間部では歌詞の単語を少しずつ増やしていって、ゆっくりとかみしめるように文章を歌っていくという、とても贅沢な時間の使い方をしています。四拍子部分の通奏低音の同じパターンを反復していく動きもおもしろいものです。

「主が私の主に言われた」(Dixit Dominus)は1610年に出版された有名な「聖母マリアの夕べの祈り」の中の第2 曲です。この曲集はサン・マルコ大聖堂のために作曲されたと誤解されがちですが、モンテヴェルディのマントヴァ時代の作品です。この曲では常に驚くべき楽想の変化があります。ポリフォニーの部分、単一和音上の詩編の朗唱、舞曲風の三拍子、複雑にからみあうリズム、独唱そして器楽によるリトルネッロ。恐るべき情報量がつまっており、そして全体が見事な統一を形作っているという、モンテヴェルディの天才を思い知らされる音楽です。

*  *  *

1845年5月12日、南フランスのパシエで6人兄弟の末っ子としてガブリエル・フォーレは生まれました。ガブリエルは「大切な子」と呼ばれつつ、誰もこの子供に期待をしていませんでした。父は小学校の教師をしており、厳正で近づき難い雰囲気の人柄であったようです。フォーレは後に「父とは一度も打ち解けて話をすることができなかった」と語っています。

フォーレは生後すぐに乳母のところに里子に出されたのですが、4年後に父が師範学校の校長に任命された際に親元へひきとられました。

この学校のピアノや礼拝堂のオルガンでフォーレは音楽に親しんでいきます。

1853年、8歳の時でした。師範学校を視察に来ていた立法院議員リービアック氏がフォーレのピアノ演奏を聴いて、その才能に驚きパリの音楽学校で勉強するように勧めました。

そして翌年、9歳のフォーレはパリのニデルメイエール古典宗教音楽学校の寄宿生となり、1865年までの11年間にわたり古典的一般科目と音楽の勉強を続けました。

この学校の創立者であるニデルメイエールは優れた教育者でしたが、惜しくも1861年に亡くなりました。しかしその後任にサン=サーンスが教授に任命されました。

この時フォーレは15歳、サン=サーンスは25歳でしたが、この出会いによって生まれた友情は1921年にサン= サーンスが亡くなるまで続きます。また、これを機にフォーレは作曲を始めます。後に作品1-1として出版された歌曲「蝶と花」はこの年に作られました。

宗教音楽学校を卒業した20歳のフォーレはレンヌの教会のオルガニストの職につきますが、ここでは司祭との対立などもあり、良い思い出のないまま、1870年にパリに戻ってきます。

そして1874年にはサン=サーンスの尽力により、その後任としてマドレーヌ寺院のオルガニストとなり、更に1877 年には礼拝堂楽長に就任します。しかしこの年の秋には婚約の破棄によって大きな精神的苦痛を味わうこととなります。

その後1896年にはパリ国立音楽院の教授に就任するなど、フォーレの人生は順調に進んでいきます。しかしここでフォーレは思いがけず難聴に襲われます。すでに1901年にはその兆候があらわれ、1903年にはかなり悪化していたようです。ベートーヴェンのように晩年にはほとんど耳が聴こえなくなってしまいます。

しかしフォーレは死の直前まで作曲を続けました。最後の作品「弦楽四重奏曲ホ短調」を完成させたのは1924 年9月11日のことでした。そしてフォーレは同年11月4日肺炎によってその生涯を閉じます。その葬儀は国葬となり、マドレーヌ寺院で自らの作である「レクイエム」が歌われたのでした。

*  *  *

フォーレは79年間の生涯のうち、約60年にわたって創作活動を行いました。100曲を超える歌曲、舟唄や夜想曲といったピアノ曲、そしてヴァイオリン・ソナタなどの室内楽の名品が重要な作品といえるでしょう。

しかしフォーレの作品で1曲だけその代表作を挙げるとすれば、多くの人がこの「レクイエム 作品48」を思い浮かべるのではないでしょうか。

フォーレの「レクイエム」が今日知られている形に完成するまでの成立過程は少々複雑です。

1888年1月16日、マドレーヌ寺院で建築家 ル・スファシェという人の葬儀のために「イントロイトゥス入祭唱とキリエ憐れみの賛歌」「サンクトゥス感謝の賛歌」「ピエ・イエズ憐れみ深きイエスよ」「アニュス・デイ平和の賛歌」「イン・パラディズム楽園へ」の5つの楽章が演奏され、これを一応初演としています。

残る2つの楽章のうち「オッフェルトリウム奉献唱」は1889年6月の私信の中に「完成した」との記述があります。また第6曲となる「リベラ・メ私を解き放ちたまえ」はすでに1877年の段階でバリトン独唱とオルガンのための初期稿が成立していました。しかしこの曲が「レクイエム」に組み込まれたのは初演以降であり、更に今日の決定稿である合唱とオーケストラを加えた版の初演は1892年1月の国民音楽協会の演奏会でのことでした。

これらのことから「レクイエム」は最初の構想から十数年の年月をかけて熟成されたものであることがわかります。1885年に父が、そして1887年に母が亡くなります。「レクイエム」作曲の動機を両親の死と結びつけるという見解もありますが、私個人としては疑問に思います。フォーレ自身は作曲の動機を「ただそれを作りたいということだけだった」と語っています。そしてなによりフォーレが両親と暮らしたのは4~9歳の5年間だけのことでしたのですから。

この「レクイエム」はオーケストラの編成についても変遷をたどります。1888年の初演時はヴィオラ、チェロ、コントラバス、ソロ・ヴァイオリン、ハープ、ティンパニ、オルガンのみが使われました。その後再演の際に少しずつ編成が拡大します。1893年の版ではファゴット、ホルン、トランペットが追加されています。また1900年には更に木管楽器、トロンボーン、ヴァイオリン・パートが追加されます。これはフォーレ自身ではなくロジェ・デュカスによるオーケストレーションであると考えられています。

*  *  *

フォーレの「レクイエム」は20世紀末までこの大規模なオーケストラの形で演奏されてきましたが、本来のフォーレの音楽には合わないのではないかという批判もありました。

本日の私達の演奏では、ジョン・ラッターの校訂による1893年版を基にし、初演時の響きを考慮した必要最小限の編成でお聴きいただきます。それはソロ・ヴァイオリン、2声のヴィオラ、2声のチェロ、コントラバス、2本のホルン、オルガンという選択です。

*  *  *

全曲は以下の7つの部分からなります。

  1. 入祭唱(イントロイトゥス) と 憐れみの賛歌(キリエ)
    「主よ、彼らに永遠の安息を与えたまえ」という死者のためのミサの典礼上のモットーが、まず6声部の合唱によって歌われます。テノールにより繰り返された後、ソプラノが賛美の歌を歌います。そしてテノールの歌った旋律により「主よ、憐(あわ)れみたまえ」の祈りとなります。
  2. 奉献唱(オッフェルトリウム)
    アルトとテノールによるカノンで「死者の魂を地獄の罰と深淵から救いたまえ」と祈りの歌を歌います。中間部はバリトン独唱が「あなたを賛美する供物と祈りを受け取りたまえ」と歌います。その後4声部の合唱により、すでに救いが得られたかのように、明るいニ長調で冒頭の歌詞を歌います。終結部は教会に光が差し込んでくるかのようなアーメンの合唱です。
  3. 感謝の賛歌(サンクトゥス)
    グレゴリオ聖歌のような旋律を女声、男声で交互に歌っていきます。やがて旋律は「ホザンナ」の歓喜の声へと高まります。
  4. 憐れみ深きイエスよ(ピエ・イエズ)
    ソプラノ独唱による敬虔な旋律により、再び「死者に永遠の安息を与えたまえ」と歌います。
  5. 平和の賛歌(アニュス・デイ)
    テノールが、犠牲となった神の子羊に永遠の安息を願う祈りを歌います。中間部は聖体拝領唱となり、半音階的な和声が揺れ動きます。その後1曲目(入祭唱)の音楽が再現され、最後はニ長調でこの曲冒頭の前奏部分に回帰します。
  6. 私を解き放ちたまえ(リベラ・メ)
    バリトン独唱が「最後の審判の日に私を永遠の死から解き放ちたまえ」と歌います。次にホルンが吹く最後の審判のラッパに引き続き、「怒りの日」の恐怖が歌われます。その後、合唱のユニゾンによって冒頭のバリトン独唱の旋律が歌われます。
  7. 楽園へ(イン・パラディズム)
    本来は告別式のための聖歌であり、「天使達があなたを楽園に導くように」と祈ります。天上的なニ長調の世界でソプラノが聖歌を歌い、他の声部は「エルサレムへ」という部分で唱和します。

*  *  *

今回の演奏会では大きく隔たる二つの時代の音楽に対応するために2台のポジティフ・オルガンを用意し、それぞれの音楽に合った調律での演奏を試みます。

前半のモンテヴェルディでは、オルガニスト 渡部 聡氏所有の楽器を初期バロックでは一般的であったミーン・トーンに調律します。

また後半では、元合唱団員でもあります相見ひろ子さん所有の楽器をお借りし、18世紀半ばにヴァロッティによって発表された調律によって演奏いたします。

合唱の響きを美しく作るためには、一緒に演奏する楽器の調律は重要な問題であり、今後も研究しなければならないと思います。

また今回快く楽器を貸し出してくださった相見ひろ子さんには心より感謝いたします。


<オルガン曲> 渡部聡

フレスコバルディはローマのサンピエトロ大聖堂のオルガニストを勤め、鍵盤のヴィルトゥオーゾとして名声を博しました。特に即興的でファンタスティックなトッカータの様式を確立し、その後のイタリアのみならずヨーロッパ全体の鍵盤音楽に大きな影響を残しました。本日の曲目は、1627年に出版されたトッカータ集第2巻に収められています。

タルクィーニオ・メールラはクレモナ生まれのオルガニスト、ヴァイオリニスト、作曲家で、合唱曲や鍵盤曲、器楽合奏曲などを残しています。合唱曲にはモンテヴェルディやガブリエリの影響が、また、鍵盤曲にはフレスコバルディの影響が見られます。本日の曲目では半音階進行が多用されていますが、ミーントーン調律で演奏するため、半音の幅の不均等さが面白く聴き取れるのではないかと思います。


【歌詞対訳】

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