<演奏者>
指揮 鈴木優 / ソプラノ 木島千夏 / アルト 佐久間和子 / コンサート・ミストレス 神戸愉樹美 / オーケストラ つくば古典音楽合奏団 (バロック・第1ヴァイオリン 神戸愉樹美,夏目美絵 ; バロック・第2ヴァイオリン 鷲見康郎,影山優子 ; バロック・ヴィオラ 上田美佐子 ; チェロ 高群輝夫 ; ヴィオローネ 井上陽 ; バロック・オーボエ 永浜由桂,大城由里 ; オルガン 渡部聡) / オルガン 渡部聡 / 合唱 つくば古典音楽合唱団
<プログラムと演奏録音>
H.Scheideman(c.1595-1663) | シャイデマン | ||
Praeambulum in d | 前奏曲 二調 | 19-01.mp3 4:17 | |
H.Shütz(1585-1672) | シュッツ | ||
Cantate Domino canticum novem, SWV81 | 主に向かいて新しき歌を歌え | 19-02.mp3 3:38 | |
J.H.Schein(1586-1630) | シャイン | ||
Die mit Tränen säen | 涙と共に種蒔く者は | 19-03.mp3 4:06 | |
H.Sceidemann(c.1595-1663) | シャイデマン | ||
“Mio cor, se vera sei salamandra” nach Felice Anerio | フェリーチェ・アネリオのマドリガルによるパッサジャータ | 19-04.mp3 4:09 | |
A.Hammerschmidt(1611-1675) | ハンマーシュミット | ||
O barmherziger Vater | おお、慈悲深き御父よ | 19-05.mp3 4:37 | |
J.Kuhnau(1660-1722) | クーナウ | ||
Tristis est anima mea | 私の魂は悲しく憂鬱である | 19-06.mp3 4:34 | |
-休憩- | |||
J.S.Bach(1685-1750) | バッハ | ||
Messe in h-moll, BWV232 | ミサ曲ロ短調(抜粋) | ||
KYRIE | あわれみの賛歌 | ||
1. | Kyrie eleison | 主よ、あわれみたまえ | 19-07.mp3 8:57 |
2. | Christe eleison | キリストよ、あわれみたまえ | 19-08.mp3 5:27 |
3. | Kyrie eleison | 主よ、あわれみたまえ | 19-09.mp3 3:33 |
SYMBOLUM NICENUM(CREDO) | ニケア信経(信仰宣言) | ||
1. | Credo in unum Deum | 私は唯一の神を信じる | 19-10.mp3 2:15 |
3. | Et in unum Dominum | 私は唯一の主を信じる | 19-11.mp3 4:33 |
4. | Et incarnatus est | 主は御からだを受け | 19-12.mp3 2:31 |
5. | Crucifixus | 主は十字架につけられ | 19-13.mp3 2:30 |
OSANNA-DONA NOBIS PACEM | 感謝の賛歌より、平和の賛歌 | ||
4. | Agnus Dei | 神の子羊 | 19-14.mp3 4:48 |
5. | Dona nobis pacem | 我らに平和を与えたまえ | 19-15.mp3 3:05 |
Encore : Dona nobis pacem | 19-16.mp3 3:12 |
<プログラムノート> 鈴木優
つくば古典音楽合唱団では、これまでの18回に及ぶ演奏会でルネサンスの無伴奏の作品から、ヘンデルの「メサイア」、モーツァルトの「レクイエム」「ハ短調ミサ曲」、フォーレの「レクイエム」といった多くのすばらしい合唱作品を演奏してきました。
そんな私達にとって、バッハの大規模な作品を演奏することは、ひとつの大きな夢であり、また目標でもあります。膨大な情報量を湛えるバッハの楽譜を満足のいく形で音として響かせるためには、周到な準備と充分な練習量が必要です。
しかし恐れを抱いて、いつまでも遠ざかっていることも愚かしいことです。ここ数年の間に私達の合唱をする技術もそれなりに向上して来ました。そこで、そろそろ機も熟してきたと判断して「ロ短調ミサ曲」を取り上げることにしました。
私達はこの大作を2年間かけて取り組むという計画を立てました。私達の力量では1年ではとても全曲を消化することは困難であると思われます。また来年の第20回という記念すべき演奏会を「ロ短調ミサ曲」で飾ることができたらという意図もあります。
しかしながら同時に、今回の第19回演奏会が、御来場いただいた皆様に意義のある時間を過ごしていただき、また合唱団員にとってもこの貴重な1年の練習の成果を十二分に発揮する場でなければなりません。単に2年計画の中間発表などというのではなく、1回の独立した演奏会として、私達にとってできるだけ質の高い演奏会にしようと考えました。
そこで今回の演奏会には「バッハ至高のミサ曲への道」というタイトルを付けました。御明察のとおり、このタイトルにはバッハに至る1世紀のドイツ・プロテスタントの教会音楽の流れをお聴きいただくということと、私達合唱団の「ロ短調ミサ曲」に対するアプローチの道程をここに示すという2つの意味をかけました。
本日はバッハに先立つ4人の作曲家の作品と「ロ短調ミサ曲」の約1/3を演奏いたします。
もし気に入っていただけましたら、是非来年の全曲演奏の際にも御来場ください。そして私達といっしょに歌ってみたいという方がいらっしゃいましたら、是非練習に参加してください。どうか私達に力をお貸し下さい。
17世紀、ドイツ・バロックの教会音楽をお聴きいただく演奏会前半のプログラムは、やはりハインリヒ・シュッツの作品で始めたいと思います。
シュッツはバッハが生まれる、ちょうど100年前の1585年10月14日にライプツィヒの南方40kmにケストリッツという村に生まれました。モーリッツ辺境伯に見出され、1598年にカッセルの宮廷礼拝堂歌手となり、1609年にはサン・マルコ大聖堂のジョヴァンニ・ガブリエリに師事するためにヴェネツィアへ留学します。帰国後、1613年よりカッセルで宮廷オルガニストを勤めた後、1617年にドレスデンの宮廷楽長となり、1672年11月6日に87才で亡くなるまでこの地位にありました。その間1628年には再度ヴェネツィアを訪れ、モンテヴェルディの大きな影響を受けたことが知られています。
「主に向かいて新しき歌を歌え」は1625年に出版された「カンツィオーネス・サクレ(Cantiones sacrae)」という曲集中のモテットです。四声部の合唱と通奏低音という編成によって、詩編149・1-3のテキストをラテン語で歌います。力強く喜びにあふれた讃美の歌にふさわしく、活力に満ちた3拍子の音楽の中にcanticum(歌を) 、tympano(太鼓) 、psalterio(竪琴) といった言葉が、描写的な音型でちりばめられています。シュッツの作品としてはイタリア的な要素の極めて大きな曲といえるでしょう。
「涙と共に種蒔く者は」の作曲者ヘルマン・シャインは1586年1月20日、ザクセン地方のアンナベルク近郊グリューンハインで牧師の息子として生まれます。幼くして父を亡くした後、彼の一家はドレスデンに移り、シャインはここで音楽の才能を発揮し13歳の時には宮廷礼拝堂の聖歌隊員となります。
シャインは音楽と共に法律も学んだようですが、1615年にはヴァイマールの宮廷楽長、そして1616年にはライプツィヒの聖トマス教会カントールに就任します。この職は後にバッハも就任することになるのですが、ライプツィヒの主要な教会の礼拝や行事のための音楽の作曲と演奏、そして寄宿制の学校でラテン語などの授業もしなければならなく、かなりの激務であったようです。30代の終わり頃から、シャインは結核、痛風、腎臓結石など様々な病気に悩まされ、温泉治療も試みますが1630年11月19日に44才の若さで亡くなります。
シャインはシュッツと親交があり、自分のための葬儀用の音楽を依頼しました。シュッツの「宗教合唱曲集( 1648年)」に収録されている「この言葉は確かな真実(Das ist je gewißlich wahr)」はその要望に応えて作曲されたものです。
本日演奏いたしますドイツ語による詩編126・5-6をテキストとする「涙と共に種蒔く者は」は1623年に出版された「イスラエルの泉(Israelsbrünnelein)」中の曲です。この曲集もイタリアのマドリガーレの様式の影響が強く見られ、時に「宗教的マドリガーレ」とも呼ばれています。しかし同時にこの曲でもドイツ語ならではの韻律の扱いや、言葉に対しての独自の音化がみられます。
アンドレアス・ハンマーシュミットは、1611年にボヘミア地方のグリックスに生まれ、ザクセン地方のフライベルクやツィッタウで教会音楽家として活躍し、1675年に没しました。
ハンマーシュミットは多くの合唱曲と共に、ヴィオールのための合奏曲など多くの器楽曲も残しています。また当時の作曲家としてはめずらしく楽譜にニュアンス、表情、テンポなどを書き込んだことでも知られています。
「おお、慈悲深き御父よ」は1641年の曲集中のもので四声部の合唱に通奏低音が付けられています。テキストの出展は明らかではないのですが、心からの悔悛、そして主なる父にあわれみを乞うといった内容の敬虔な祈りのモテットです。「あわれな罪人なる私は、あなたの元に向かい」の部分での半音階の使用、「私をあわれみたまえ」の部分での畳みかけるような言葉の反復、「願わくば」の部分での下降する六度音程の使用など、17世紀バロック音楽の特徴的な語法が多くみられます。
前半のプログラムの最後に演奏いたします「私の魂は悲しく憂鬱である」の作曲者ヨハン・クーナウは、トマス・カントールのバッハの前任者として知られています。
クーナウはザクセン・エルツビルゲ地方のガイジングに1660年に生まれます。少年時代には、今日でも有名なドレスデン聖十字架教会の聖歌隊員となり、後にはライプツィヒ大学で法律を学びました。そして1680年にトマス教会オルガニストとなり、1701年にはトマス・カントールに就任し、1722年に亡くなるまでその職にありました。クーナウは音楽家であると共に、神学や語学にも造詣の深い学者でもあったので、その職はまさに適職でした。
その死後、ライプツィヒ市参事会は後任者にテレマンを望みましたが条件が折り合わず、その後何人かの候補者のうちの1人であったバッハが採用されることとなります。当時の議事録に「最良の人が得られなければ、中くらいの者でも採用しなければならない」という記述が残っています。
「私の魂は悲しく憂鬱である」は五声部の合唱のための受難節のモテットです。テキストの前半はマタイによる福音書26・38によるものです。最後の晩餐の後、イエスはゲッセマネという所へ行き、「私の魂は死にそうなほどに悲しい。ここに留まり、私と共に目を覚ましていなさい。」と弟子達に語ります。しかし弟子達はみな眠ってしまいます。後半は出典は不明ですが、やはりイエスの言葉です。この言葉どおりに、イエスが逮捕されると弟子達は皆イエスを見捨てて逃げてしまいます。
クーナウは18世紀まで生きたわけですが、この時代になりますと音楽の様式もポリフォニーと和声的な部分が融合してきています。この曲でも不協和音の使用が、イエスの心の苦悩、痛みを音化することに効果を上げています。
ヨハン・セバスティアン・バッハは1685年3月21日に中部ドイツの小都市アイゼナッハに生まれます。
バッハの一族は中部ドイツでは有名な音楽家の家系で、オルガニスト、カントール、町楽師といった職業音楽家を多く輩出しています。ヨハン・セバスティアンの父、アンブロシウスも町楽師でした。
バッハは15才の年に北ドイツのリューネブルクの聖歌隊員となり、寄宿学校で学ぶことも許されます。学業の後、1703年にアルンシュタット、1707年にはミュールハウゼンのオルガニストになります。バッハの最も初期のカンタータ「キリストは死の縄目につながれたり」や「神の時は、いと良き時」はこの時期の作品です。またこの間、1705年10月より北ドイツのリューベックに滞在し、ブクステフーデのオルガン演奏や教会音楽の演奏を聴き、大きな影響を受けました。
そして1708~17年にはヴァイマールで宮廷オルガニスト、そして楽師長を務めます。この時期にも多くのカンタータが作曲されていますが「泣き、嘆き、憂い、怯え(BWV12)」は後にロ短調ミサ曲の「主は十字架につけられ」に改作されます。
その後1717~23年は、ライプツィヒ北西50kmにある城下町ケーテンの宮廷楽長となります。ケーテンの領主レオポルト公は音楽を好み、バッハも幸福な日々を送ることができました。ケーテンの宮廷楽団は名手が揃い、水準の高いものでした。この時期のバッハは「ブランデンブルク協奏曲」を始めとし、数多くの器楽曲の名曲を作曲しました。しかし、この幸福な日々もレオポルト公の2度目の后妃が音楽嫌いであったために終止符が打たれます。
バッハは新しい就職先を探すこととなりましたが、前記したとおり1723年にクーナウの後任としてトマス教会カントール兼ライプツィヒ市音楽監督に就任します。バッハは市内の4つの主要教会のために作曲をし、それを練習して演奏した上に、教会付属学校の教師としての職務もこなすといった多忙な日々を送ります。毎週日曜日の礼拝、そしていくつかの祝日のためのものを加えると年間約60曲のカンタータが必要ですが、バッハは最初の1年間になんと約50曲の新作を演奏しています。
その後も晩年に至るまで創作の意欲はとどまることがありませんでした。1747年にはフリードリヒ大王の提示した主題による「音楽の捧げ物」、そして1749年にかけて「ロ短調ミサ曲」、「フーガの技法」といった自らの創作の集大成的な作品がまとめられます。
バッハは晩年白内障を患い、1750年3月に手術を受けます。この手術は失敗に終わり、以後バッハは完全に視力を失い病床に暮らすことになります。7月18日に一時的に視力が回復しますが、直後に卒中が起こり高熱が出ます。その10日後7月28日にバッハは65年の生涯を閉じました。「故人略伝」(息子エマーヌエルによるバッハの年代記)には「バッハは救い主の功徳を願いつつ平穏かつ浄福に世を去った」と記されています。
「ロ短調ミサ曲」はいくつか不可解な点のある音楽です。そもそもルター派の教会音楽家であるバッハが、なぜカトリックの教会音楽として一般的なミサ通常文のセットを作曲したのか。
はたしてバッハの生前このミサ曲は実際に演奏されたのだろうか。
こういった謎に答える意味で、現在までに解明された、この大曲の成立事情をここにまとめておきます。
「ロ短調ミサ曲」の自筆総譜(東ベルリン国立図書館所蔵)によると、この曲は第1部「ミサ」として「キリエ」と「グロリア」、第2部は「クレド」にあたる「ニケア信経」、第3部は「サンクトゥス」のみ、そして第4部として本来「サンクトゥス」の後半部分である「オザンナ」と「ベネディクトゥス」「アニュス・デイ」「ドナ・ノービス・パーチェム」がひとまとめにされています。カトリックの一般的なミサ曲では「キリエ」「グロリア」「クレド」「サンクトゥス」「アニュス・デイ」という5つの部分にするのが普通です。「ロ短調ミサ曲」のこの例外的な構成から、この特異な曲の成立事情をうかがうことができます。
まず第1部の「ミサ」の部分は1733年にドレスデンのザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世に献呈され、そのパート譜のセットが献上されました。当時のバッハはライプツィヒ市参事会と様々な面で対立があり、減俸処分すら受けています。そこでバッハはこの「ミサ曲」を献呈することによりドレスデンの宮廷作曲家の称号を手に入れ、自分の立場を好転させようとしました。
このような事情で第1部が作曲されましたが、そのまま引き続き第2部以降が作曲されたわけではありませんでした。バッハの作品の作曲年代は、使われた五線紙のすかし紋様と筆跡を鑑定することによって推定されますが、第2部と第4部が作曲されたのは最晩年の1748年秋から49年夏にかけてと考えられています。そして第3部はすでに1724年にクリスマス礼拝で演奏された単独の「サンクトゥス」をそのまま用いています。
このように「ロ短調ミサ曲」は最初から一貫したプランで作曲されたのではなく、視力も衰え、余命がもうそれほど長くないことを自覚したバッハの自発的意思によってまとめられた曲集であると言えるでしょう。
どのような動機に基いてバッハが「ロ短調ミサ曲」を完成させたのかを私達は知ることはできません。第3部「サンクトゥス」以外はバッハの生前に演奏された確証はありません。第2部と第4部には演奏に必要なパート譜が一切残されていません。献呈された第1部にも演奏された記録は何も残っていません。そもそも演奏に2時間近くかかるこの大曲が、実際の礼拝の枠に収まるはずもありません。
最晩年のバッハが自分の音楽家としての人生の集大成として未来の聴衆のために教会音楽の規範を示そうとしたのでしょうか。プロテスタントの教会音楽家であるバッハが、カトリックのミサ曲を書き残すことによって宗派を超えて神に捧げ物をしようとしたのでしょうか。いずれにせよバッハの死後250年経った今日、私達がこの偉大な音楽作品に親しみ、また享受することができることは何と幸福なことでしょう。
本日、私達は第1部「ミサ」より「主よ、あわれみたまえ」(五声部合唱)、「キリストよ、あわれみたまえ」(二重唱)、「主よ、あわれみたまえ」(ア・カペラ様式による四声部合唱)、第2部「ニケア信経」より「私は唯一の神を信じる」(五声部合唱)、「私は唯一の主を信じる」(二重唱)、「主は御からだを受け」(五声部合唱)、「主は十字架につけられ」(四声部合唱)、第4部の後半「神の子羊」(アルト独唱)、「我らに平和を与えたまえ」(四声部合唱)を演奏いたします。
私たちの演奏会ではオーケストラはいつも神戸愉樹美さんにコンサート・ミストレスを務めていただいておりますが、今回は初めての試みとして古楽器によるオーケストラを編成していただきました。そのため基準ピッチもA = 415 Hzといたします。現代の標準ピッチA = 440 Hzに比べて半音低く響くことになります。
なお、「主は十字架につけられ」のフルートのパートと「我らに平和を与えたまえ」終結部のトランペットのパートは、本日の演奏ではオーボエで代奏いたします。
バッハのようなポリフォニーの要素の強い音楽を演奏するには各声部の自律性が非常に重要ですが、同時に垂直方向のハーモニーとバランスも同様に重要です。これを実現するには音程の純度が必要です。そしてバッハのような複雑な音楽では音程のよりどころとして適切な音律を選び、その音程を基準として音楽をつくっていくことが、むしろ近道であると思います。
試行錯誤の結果、昨年より私たちは日頃の練習においても、平均律で調律されたピアノではなく、様々な古典調律ができるキーボードを使っています。昨年の演奏会では16~17世紀に一般的であったミーン・トーン音律でモンテヴェルディを演奏して良い結果を出すことができたと思います。
今回は18世紀中頃に発表されたヴァロッティという音律で演奏してみます。私達の作り出す響きが、他の合唱団と違っているとしたら、このような点にも考慮をはらっていることもその一因であるといえましょう。
以上述べたような演奏上の選択は、バッハの時代の演奏様式の再現といった観点ではなく、今日私達がより美しいバッハを演奏するためにはどうすべきかというアプローチの方法としてなされた事であるということを、ここに付け加えておきます。
<オルガン曲> 渡部聡
曲目解説
シャイデマンは、ハンブルクのカタリーナ教会のオルガニストとして長く活躍し、ヴェックマン、ラインケン、ブクステフーデ等へと連なる北ドイツオルガン楽派の基礎を築いた作曲家として有名です。若い頃にはアムステルダムのスヴェーリンクのもとで学び、彼を通してイギリスのヴァージナル楽派の影響も受け継いでいます。現存する作品は、少数の声楽曲の他はほとんどが鍵盤曲で、特にコラール編曲やマニフィカト、また、前奏曲やトッカータなどに優れた作品が多く残されています。
前奏曲はトッカータと同様、和音や走句、特徴のある器楽的音型の連続で構成されています。パッサジャータは、当時流行していたマドリガル(世俗的合唱曲)を、器楽的音型を加えながら鍵盤用に編曲したものです。
オルガンについて
本日使用のオルガンはポジティフオルガンと呼ばれる移動可能なパイプオルガンで、草苅徹夫氏が1993年に製作したものです。3列のレジスター(音栓)を持ち、小型の本体の中には約150本のパイプがぎっしり詰まっています。椅子の中にある送風機からダクトを通して風が送られる構造になっています。