第37回定期演奏会《バッハ ルター派教会のミサ曲》 2024.10.27

<演奏者>
揮揮 鈴木優/メゾソプラノ 紙谷弘子/テノール 谷川佳幸/バリトン 室岡大輝/コンサート・ミストレス 神戸愉樹美/オーケストラ つくば古典音楽合奏団(ヴァイオリン 神戸愉樹美 渡邊慶子 宮崎桃子 宮﨑蓉子; ヴィオラ 小林 瑞葉; チェロ 野津真亮; コントラバス 井上陽; オーボエ 森綾香 小野寺彩子; ファゴット 永谷陽子; オルガン 渡部聡)/合唱 つくば古典音楽合唱団


<プログラムと演奏録音(録音の掲載は準備中です)>

Girolamo Frescobaldi (1583-1643) ジローラモ・フレスコバルディ
Fiori musicali (1635) 「音楽の花束1635」より
 Toccata avanti la Messa della Madonna トッカータ
 Canzon dopo l’Epistola カンツォン
Josquin Des Prez (1450/1455-1521) ジョスカン・デ・プレ
Ave Christe, immolate めでたし、いけにえのキリストよ
 Prima pars 第1部(めでたし、いけにえのキリストよ)
 Secunda pars 第2部(めでたし 世の光よ)
Georg Friedrich Händel (1637-1707) ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル
Concerto Grosso IV in F, Op.3 No.4a, HWV315 合奏協奏曲第4番a Op.3-4a
1. Andante – Allegro – Lentamente アンダンテ-アレグロ-レント
2. Andante アンダンテ
3. Allegro アレグロ
4. Minuetto alternativo メヌエット オータナティヴォ
Antonio Vivaldi (1678-1741) アントニオ・ヴィヴァルディ
Credo, RV 591 クレド(信仰宣言)
1. Credo 私は信じる
2. Et incarnatus est 主は受肉され
3. Crucifixus 主は十字架につけられ
4. Et resurrexit 主は復活され
-休憩-
Johann Sebastian Bach (1685-1750) ヨハン・セバスティアン・バッハ
Missa in g BWV235 ミサ曲ト短調 BWV235
1. Kyrie キリエ(合唱)
2. Gloria グロリア(合唱)
3. Gratias agimus tibi 主の大いなる栄光のゆえに(バス独唱)
4. Domine Fili unigenite 主なる御ひとり子(アルト独唱)
6. Qui tollis peccata mundi 世の罪を取り除く主よ(テノール独唱)
5. Cum Sancto Spiritu 聖霊とともに(合唱)
Encore: J. S. Bach Jesus bleibet meine Freude 主よ、人の望みの喜びよ

<プログラムノート> 鈴木優

本日はお忙しい中、つくば古典音楽合唱団 第37回定期演奏会にご来場いただき、まことにありがとうございます。今年も暑さの厳しい夏でした。練習場所であるつくば市並木交流センターホールには冷房設備は整っておりますが、7月および8月にも毎週水曜日の練習と月一回の日曜日の練習を休まずに行いました。これまでの経験によりますと夏の厳しい暑さの中で集中力の必要な練習を続けますと、秋になって気候が良くなった時に突然良い演奏ができるようです。今年の夏も暑さにもかかわらず合唱団員の練習への出席率はとても高いものでした。この厳しい時期の練習を経て、本日は良い演奏ができそうな予感がいたします。どうぞ皆様、ご期待ください。

本日の演奏会ではオルガン独奏の後に16世紀ルネサンスの「めでたし、いけにえのキリストよ」、そしてそれに続いてゲオルク・フリードリッヒ・ヘンデル (Händel, Georg Friedrich 1685-1759)、アントニオ・ヴィヴァルディ (Vivaldi, Anton 1678-1741)、ヨハン・セバスティアン・バッハ (Bach, Johann Sebastian 1685-1750)という後期バロックを代表する三人の作曲家の音楽をお聴きいただきます。

15世紀の中頃からの約一世紀の間、音楽の中心地は北フランスからベルギーにかけてのフランドル地方でした。フランドル楽派の音楽家たちは声楽によるポリフォニー音楽を高度に発達させました。これらの音楽は各声部が独立して主題を模倣して行く「通模倣様式」と呼ばれるものを基礎にしています。「めでたし、いけにえのキリストよ (Ave Christe, immolate) 」 は長らく、当時「最大の作曲家」と讃えられていたジョスカン・デ・プレ(des Prez, Josquin c.1450/55-1521)の作品とされてきました。この曲は1564年に南ドイツのニュルンベルクで出版された「音楽の宝庫 (Thesauris Musici)」にジョスカンの作品として収録されています。しかしジョスカンの生前に出版された作品集には見つけることができない点などから、今日ではジョスカンの真作ではないと考えられています。この曲はフリギア調というmi-fa-sol-la-sol-fa-miという印象的な音階を持つ教会旋法が用いられており、現代の長調・短調とは異なる印象の音の世界を感じていただけると思います。

続いてはオーケストラの演奏によってヘンデルの「合奏協奏曲第4番 Op.3-4a (Concerto Grosso IV in F major, Op. 3 No. 4a)」をお楽しみください。ヘンデルは1685年2月23日にドイツのハレに生まれます。父親は宮廷の外科医兼侍僕でした。ヘンデルは幼少より音楽に興味を示し、才能を発揮しました。後にはオペラの作曲に強い関心を寄せました。最初のオペラ「アルミーラ」は1705年1月8日にハンブルクの劇場で好評をもって初演されました。
 1706年から1710年にかけてイタリアで過ごし、その間にイタリア語による声楽曲の作曲技法を習得します。1719年にはロンドンで彼自身が「運命をかける」と語った、オペラ上演のための株式会社「王宮音楽アカデミー」の音楽監督となります。この事業は当初成功しますが、年々財政は悪化し1728年6月1日には破産となります。ヘンデルはなおもオペラの作曲に執着しますが1737年4月13日、卒中の発作を起こしてしまいます。静養の後10月末、ロンドンに戻り新しいオペラの作曲に取りかかりますが、オペラによって過去の栄光を取り戻すことはできませんでした。翌1738年には経済上の問題で、翌シーズンのオペラ上演中止を発表しなければなりませんでしたが、この年ヘンデルは「サウル」と「エジプトのイスラエル人」の二つのオラトリオを作曲します。ヘンデルのオラトリオは、次第に大きな支持を集めてゆきます。そして1741年9月14日に「メサイア」が完成し、熱狂的な成功を収めます。1751年2月23日、「左眼視力減退のため作曲を続けることができず」と書き記した彼は、その年の夏に左眼の視力を失い、翌年8月には右目の視力も失います。1759年4月6日、「メサイア」演奏の後、ヘンデルは死期が近いことを悟り、遺書に「困窮した音楽家とその家族のための」巨額の寄付の項を書き加え、復活祭の4月14日の朝、74歳で静かに息をひきとります。4月20日の葬儀には三千人もの人が参列し、その遺体はウエストミンスター大聖堂に埋葬されました。今日でも大聖堂内で『メサイア』の楽譜を手にしたヘンデルのモニュメントを見ることができます。
「合奏協奏曲 作品3」は1734年に出版されました。本日は第4番を弦楽合奏と2本のオーボエ、通奏低音を補強するファゴット、そしてオルガンという編成で演奏いたします。第一楽章は緩-急-緩とテンポが変化するフランス風序曲です。第二楽章は本来チェンバロのためのアンダンテの曲を編曲したものです。弦楽器に途中でオーボエの独奏が加わります。第三楽章はオーボエとヴァイオリンが中心となるフーガの楽章です。第四楽章はトリオ的な中間部を持つメヌエットの楽章となります。

前半の最後はヴィヴァルディの教会音楽をお聴きいただきます。ヴィヴァルディは1678年3月4日にヴェネツィアに生まれ、父からヴァイオリン演奏法を学びました。1693年から1703年にかけては聖職者になるための教育を受けますが、司祭になってからすぐにミサを司式しなくなってしまいました。その理由を喘息の持病によるものと弁明しましたが、音楽に専念したいと考えたのが本当の所でしょう。当時のヴェネツィアには私生児や捨て子の少女を救済する養育院が4つありましたが、その中のピエタ養育院は音楽を重要視し、才能のある少女に音楽教育を受けさせました。ピエタ養育院の少女たちによる礼拝式での演奏は大変な評判でした。ヴィヴァルディは1703年にピエタ養育院のヴァイオリン教師となり、1711年にはより責任のある地位に就き教会音楽の作曲もしました。この頃からヴィヴァルディは作曲家としての名声を望みました。1705年には12曲のトリオ・ソナタ集が作品1としてヴェネツィアで出版されます。そして1711年にはアムステルダムで「調和の霊感」と題された協奏曲集が作品3として出版され、ヴィヴァルディの名前が国外でも知られるようになりました。また、現在まで21曲のオペラが残っていますが、最初のオペラ「狂乱を装ったオルランド」は1714~1715年に上演されました。作曲家、そしてヴァイオリン奏者としての名声を得たヴィヴァルディは各地に招待されます。1723年と1724年の謝肉祭のシーズンにはローマ教皇に招かれました。1728年には神聖ローマ皇帝カール6世と会っています。しかし晩年には聴衆の好みはヴィヴァルディから次第に離れていきました。そして1741年7月28日にウィーンの馬具屋の未亡人の家で没し病院墓地に貧困者として埋葬されました。当時のヴェネツィアの記録に「かつては5万ドゥカーテンの収入を得ていたヴィヴァルディが、浪費のため貧困のうちに没した」と書かれています。
約60曲が残されているヴィヴァルディの教会音楽は、作曲年代や演奏記録など不明です。トリノ国立図書館には約300曲の筆写譜が所蔵され、そのうち5巻分が教会音楽です。これらの楽譜は1764年以降ヴェネツィア駐在オーストリア大使をつとめたジャコモ・デュラッツォ伯爵が収集したもので、それが1930年頃に、とある修道院で発見され図書館に寄贈されたものです。「クレド」「グローリア」を含む4曲の教会音楽がシエーナでのヴィヴァルディ音楽祭週間で演奏されたのは1939年9月20日のことでした。
本日演奏いたします「クレド RV591 (Credo)」は1715年頃にピエタ養育院のために作曲されたと推定されています。全体は「私は信じる」「主は受肉され」「主は十字架につけられ」「主は復活され」の4つの部分からなり、弦楽合奏、通奏低音、4声部合唱という編成で書かれています。

J.Sバッハは1685年3月21日に中部ドイツの小都市アイゼナッハで音楽家の家系の一族に生まれました。1700年にはリューネブルクの聖歌隊員となり寄宿学校で学び、卒業後1703年にアルンシュタット、1707年にはミュールハウゼンのオルガニストに採用されました。1707年10月17日にはマリーア・バルバラ(Bach, Maria Barbara 1684-1720)と結婚します。バッハの最も初期のカンタータはこの時代に作曲されています。1705年10月よりリューベックに滞在しブクステフーデのオルガン演奏や教会音楽に大きな影響を受けました。1708~17年はヴァイマールで宮廷オルガニストと楽師長を務め、1717~23年にはライプツィッヒ北西50kmのケーテンの宮廷楽長に就任します。音楽好きの領主レオポルド公(Leopold von Anhalt-Köthen, 1694-1728)は水準の高い宮廷楽団を維持していました。バッハは楽団の名手たちのために「ブランデンブルク協奏曲」をはじめとする多くの器楽曲を作曲しました。ケーテン時代はバッハの人生では幸福な時代であったとされています。しかし、1720年7月に妻バルバラが4人の子供を残して急死します。バッハは翌年の1721年12月3日に宮廷ソプラノ歌手で20歳のアンナ・マグダレーナ・ヴィルケ(Wilcke, Anna Magdalena 1701-1760)と再婚しました。バッハはアンナ・マグダレーナとの間に13人の子供をもうけましたが、成人したのは6人だけでした。同じ頃レオポルド公も再婚しましたが、新しい后妃が音楽嫌いであったためバッハは転職を考えます。そして1723年にトーマス教会カントルに就任しました。バッハは市内の教会のために作曲し、練習して演奏する上に、教会付属学校の教師としての職務もこなしましたが、最初の1年間になんと約50曲の新作のカンタータを演奏しています。その後も晩年に至るまでバッハの創作は続き、1747年にはフリードリッヒ大王(Friedrich II. 1712-1786)の主題による「音楽の捧げ物」、1749年にかけて「ミサ曲ロ短調」、「フーガの技法」といった集大成的な作品がまとめられます。1750年3月に白内障の手術後にバッハは視力を失います。7月18日卒中の発作がおこり、10日後の7月28日に65年の生涯を閉じました。「故人略伝」(息子エマーニエル(Bach, Carl Philipp Emanuel, 1714-1788)らによるバッハの年代記)には「バッハは救い主の功徳を願いつつ平穏かつ浄福に世を去った」と記されています。
本日のプログラムの後半で演奏いたします「ミサ曲ト短調 BWV235 (Missa in g BWV235)」の成立年は1738~1739年(バッハの50歳台半ば)と推定されています。この曲はキリエとグローリアの二章からなるミサ曲です。本来ミサ曲はカトリックの典礼音楽ですが、16世紀の初頭のマルティン・ルター (Luther, Martin 1483-1546) の宗教改革によって生まれたルター派教会の礼拝においてもキリエとグローリアは歌われており、特別な祝日にはサンクトゥスも含めてオーケストラと共に演奏されました。そのためバッハは4曲の二章のミサ曲と、5曲の単独のサンクトゥス楽章を残しています。この曲の各楽章にはカンタータの原曲があり、バッハは歌詞をラテン語に付け替え、さらに一部を編曲しています。原曲を示しますと Kyrie(合唱)=カンタータ第102番「汝の眼は信仰を顧みるにあらずや」第一楽章、Gloria(合唱)=カンタータ72番「すべてはただ神の御心のままに」第一楽章、Gratias(バス・アリア)=カンタータ第187番「彼らみな汝を待ち望む」第四楽章、Qui tollis(アルト・アリア)=同 第三楽章、Quoniam(テノール・アリア)=同 第五楽章、Cum Sancto(合唱)=同 第一楽章となります。バッハとしては以前に作曲した自信作をもう一度演奏する機会を得たいと考えたのでしょう。このような転用はバロック音楽の時代には良く行われていました。どうぞ充実したバッハの自信作をお楽しみください。

本日は古楽器によるオーケストラと共にA=415Hzのピッチで演奏いたします。これは現代における古楽器によるバロック音楽演奏の標準的なピッチです。ちなみに現代の標準ピッチA=440Hzは1939年にロンドンでの国際会議で決められたものです。


<オルガン曲> 渡部聡

フレスコバルディは初期バロックの鍵盤音楽の様式を確立し、後の作曲家に大きな影響を残しました。本日はFiori Musicali(音楽の花束)と題された曲集(1635年出版)から短い曲を2曲、即興的で幻想的な雰囲気のトッカータと、快活な主題による対位法的なカンツォンを演奏します。


【歌詞対訳】

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